序章 メッセージ
第1章 国鉄の経営破綻と資金調達スキーム
第2章 鉄道建設の資金調達スキーム
第3章 JR東日本に見る金利との競争
第4章 ドイツの鉄道改革と資金調達スキーム
第5章 ビジネスとしての視点
あとがき
もし鉄道について経済学的な議論をするのであれば、鉄道システムのもたらす便益だとか国民経済的な効果だとかを持ち出すことになるのであろう。鉄道システムの波及効果を考慮すれば、一般にその経済的効果は大きなものであり、しかもその議論は、素人が見たのでは理解不能なほどに高度で、かつ抽象的である。しかしこの本では、そのような高尚な議論や机上の空論を持ち出すつもりは毛頭ない。問題の本質はもっと別の所にある。
鉄道事業者の資金調達問題を調べてみたい。そう思い立って調査研究に着手して以来、私の頭の中には、いつも二つの疑問がぐるぐると渦を巻いていた。すなわち、
非公式に接触していた会社を除けば、今回直接の調査対象となった鉄道事業者は、旧国鉄・JR東日本、日本鉄道建設公団、都営地下鉄、営団地下鉄であったが、この二つの疑問に関しては、こうした巨大企業も中小企業も個人の住宅ローンも基本的に変わるところはない。
自分の目線の高さで鉄道経営を見つめ、自分の耳で直接関係者の話を聞くことで、鉄道経営の抱える問題の本質をつかみ取りたい。それがこの調査研究の目的であった。しかし、私の二つの疑問に対する答えはまだ断片的にしか見つかっていない。ひょっとすると、いくら探しても断片しか見つからないのかもしれない。まずはこの序章で、鉄道経営の抱えている問題の全体像を素描しながら、拾い集めた答えの断片をはめ込んでみることにしよう。ちょうど発掘された土器の破片から土器を復元するときのように。私が見つけた各断片の詳細な検討は第1章以降の本編で行うことにする。
経営学者である「私」は、現在の鉄道経営を考察するための準備作業として、まずは、既に結果の出てしまっている「教材」として、国鉄の事例を選択し、なぜ国鉄が破綻したのかを追いかけることから始めた。ところが驚いたことに、鉄道の地位低下や人件費膨張、そして赤字ローカル線の存在――これまで国鉄の経営破綻の原因として挙げられてきた要因は、実は直接の原因ではなかったのである。直接の破綻原因は、国鉄が1965(昭和40)年度から着手した第三次長期計画の資金調達スキームの失敗にあった。
つまり、わかりやすく言うと、改良工事や設備更新に必要な資金を高利の債券で調達したために、雪達磨式に負債が膨らみ、たった数年であっけなく経営が破綻してしまったのである。しかも、そもそも必要資金を高利の債券で調達するという無茶苦茶な資金調達スキームでは、すぐに経営が破綻してしまうということを、当時の国鉄自身が事前に警告していたにもかかわらず。
こうして、経営内容に立ち入らずとも、資金調達スキームだけで、国鉄の経営破綻のシナリオはできていたという驚くべき事実。鉄道の地位低下や人件費膨張など起こらなくても、そして赤字ローカル線が存在しなくても、国鉄の経営は破綻していたという驚くべき事実に、経営学者としての私の目は、否応無しに、資金調達スキームに向けられることになる。破綻当時は資金調達スキームという言葉すら存在しなかったのである。
そして、調査を進めていくうちに、さらに驚いたのは、現在でも各鉄道会社(正確には鉄道事業者)で、資金調達スキームを把握している人がほんの数人しかいないという事実である。数十億円〜数百億円単位の巨額資金が日常的に動いているにもかかわらず、一般の職員や従業員は、自分の会社がどのようにして資金調達をしているのかも知らなければ、そこでどんな理不尽な理屈を押しつけられているのかも知らない。そして、かつて国鉄が、それが原因で破綻したことも知らないのである。
そこで私は、鉄道建設に的を絞って資金調達スキームを調べることにした。国鉄の分割民営化で資金の流れは複雑になったが、日本では、鉄道建設のための資金は二つの組織を経由して流れている。一つは国鉄分割民営化の落し子の末裔である運輸施設整備事業団、そしてもう一つは日本鉄道建設公団である。この二つの組織を通した補助金、交付金、無利子貸付金、財投資金の流れを整理して把握すれば、資金調達スキームのかなりの部分は押さえられる。言い方を変えると、鉄道建設の資金調達スキームは、官民を問わず、かなりの部分がこの事業団と公団、すなわち政府によって決められてしまっているのである。
その結果、驚いたことに、有利子の旧国鉄債務を返済するのに当てられるべき資金、JR東日本・JR東海・JR西日本から入ってくる既設新幹線譲渡代金、年額7,424億円のうち、実に1,059億円が、「交付金」あるいは「無利子貸付金」として整備新幹線等の建設資金に注ぎ込まれていることもわかった(1997(平成9)年度決算)。国鉄分割民営化までの間に雪達磨式に約20兆円にも膨らんだ国鉄の長期債務の利子すら賄えない状態であるのに。
旧国鉄関連の話だけではない。都営地下鉄の建設のために発行される建設債では、その利子部分の支払いが先延ばしにされ、その間を特例債という有利子資金でつないでいる。そのため、結局、利子を雪達磨式に転がして膨らませてから国庫か東京都の一般会計で支払うという首を傾げたくなる行為が繰り返されている。どうせ国か東京都が支払うのであれば、利子で膨らむ前に支払ってしまった方が安上がりだというのが社会的な常識ではないだろうか。一体、この国で、国鉄の経営破綻の教訓は生かされているのか。一体、どんなポリシーがあるというのだろうか。
実際、資金調達スキームの応用問題として、ケース・スタディー的に営団地下鉄と都営地下鉄の地下鉄建設費の資金調達スキームを比較してみると、同じような業態にもかかわらず、営団の方が厳しい条件での資金調達を強いられていた。しかも営団南北線の建設では、建設工事が始まった後も、何度となく資金調達スキームが変更されていただけではなく、補助金そのものが8年間にもわたって凍結されていた。いかに国の予算は単年度主義だといっても、へたをすると資金繰りにも困りかねない事態ではないか。この他にも、補助金の出し方は、政策の一貫性に疑いを抱かせるような変転をめまぐるしく続けている。
日本と好対照をなしているのがドイツである。ドイツでは、日本の国鉄分割民営化をモデルにしているともいわれる鉄道改革(Bahnreform)が1994年に行われて、旧東西ドイツの国鉄はドイツ鉄道株式会社(DBAG)に生まれ変わった。しかしドイツでは、鉄道だけではなく道路も含めた一貫した交通政策や議論が鉄道改革前から存在していた。ドイツでのインタビュー調査において、鉄道改革に至る戦後のドイツの鉄道事情が、過去の事件や成り行きの集積としてではなく、それぞれの長期的な政策として語られていたことは新鮮な驚きであった。しかし鉄道改革前には、そうしたいくつもの長い縦糸(=一貫した政策)が、国鉄という結び目で複雑に絡み合ってしまっていたために、鉄道改革によって、その結び目を東西ドイツ国鉄を再編することで解きほぐし、それぞれの縦糸に政策としての一貫性を確保したのだと考えると理解がしやすい。
その結果、ドイツでは、鉄道建設に莫大な設備投資資金を投入するための資金調達スキームは、鉄道改革を通して、よりシンプルなものに整理されつつある。連邦政府の関係する主な補助金、無利子貸付金がGVFG、DBGrG、BSchwAGなどと、その根拠法の略称で呼ばれていることは印象的である。それと比べて日本では、国鉄分割民営化は国鉄の「清算」を意図したものであり、格段に簡単な作業だったはずにもかかわらず、分割民営化後、ルールが場当たり的にコロコロ変わり、資金調達スキームがかえって複雑化してしまった。まさに好対照である。
資金調達スキームが重要であるのは、鉄道建設も鉄道経営も基本的には金利との競争であるという事実が厳然として立ちはだかっているからである。建設資金がこれだけ巨額になると、開業時点までに累積する有利子負債額がある限界を超えてしまえば、もはやどんなに頑張っても、営業利益は利子の支払いにも追いつかない状況になってしまう。こうして支払利息で営業利益が吹き飛ぶような状況下に置かれていては、いくら営業努力を積み重ねても報われず、借金は雪達磨式に膨らんで、いつしか営業努力自体も忘れ去られることになるだろう。そのことをわれわれは国鉄という「教材」で学んできたはずではなかったのか。
そうならないためには、まず第一に、無理のない資金調達スキームを最初に工夫する必要がある。つまり、@できるだけ補助金や無利子貸付金そして内部留保で資金調達し、A有利子負債はできるだけ低金利のものにして、B補助金、無利子貸付金、内部留保をできるだけ早い時点で投入し、有利子資金の投入をできるだけ遅らせる必要がある。こうして開業までの間にどうしても膨らんでしまう有利子の負債額をできるだけ圧縮するのである。
第二に、今度は、着工から開業までの期間をできるだけ圧縮することである。開業するまでは収入がないわけであるから、当然元利ともに返済ができるわけもなく、その間の利息で有利子負債の額は雪達磨式に膨らんでいってしまう。特に、建設主体が経営主体と別になっている場合には、要注意である。着工から開業までの期間が延びれば、「つなぎ資金」の有利子負債が雪達磨式に膨らむが、このリスクを建設主体と経営主体がシェアするような仕組みがまだない。そのため用地買収から始まる工事期間が延びても、建設主体には何の痛みも伴わないので、工事期間の延長に歯止めがかからなくなる。それが言い過ぎであれば、少なくとも早期開業を目指す意気込みが違う。そうやって膨らんでしまった巨額の有利子負債のために、開業前に「破綻」が決定的になった経営主体のケースもあると業界では噂されている。鉄道の建設・改良と経営をただ上下分離しただけでは何の問題解決にもならないのである。リスク・シェアリングの仕組みを作らなければ、むしろ事態を悪化させる可能性の方が大きい。
第一のポイント、無理のない資金調達スキームを最初に工夫する必要がある、ということを見事に例示しているのが、地下鉄建設の資金調達スキームである。かつて地下鉄建設への補助金は、累計額では建設費用の半分以上を出していることになっていた。ところが、運営費補助として10年以上にわたってだらだらと交付されていたために、一番資金が必要な建設時にはほとんど資金がなく、結局、鉄道事業者が、建設資金の多くを「つなぎ」として市場や銀行からの有利子負債で調達せざるをえなかった。そうやって開業までの建設段階で雪達磨式に膨らむ有利子負債の額があまりに巨額になってしまうために、結局は、そのあとだらだらと交付される補助金は利子補給にしかならなかったのである。
しかし1992(平成4)年以降のルールで、建設時一括交付の資本費補助方式に変更になり、事態は好転する。建設時の一括交付で、開業までの「つなぎ」の有利子負債の額を半分以下に圧縮でき、ひいては利子の額も半分以下に圧縮できるようになったのである。そのために、実質補助率が低下したにもかかわらず、地下鉄事業者の実質負担は大幅に軽減し、収益構造の改善に大いに貢献することになる。つまり調達される資金の額だけではなく、資金を調達するスキームによっても、開業後の鉄道経営は決定的な影響を受けるのである。
鉄道建設に補助金を投入する場合、このように、補助金を資本費補助として建設時に集中投下し、有利子負債額と工事期間の両方をできるだけ圧縮することが肝要である。それほど有利子負債の存在は重圧であり、補助金を薄くばら撒くことはドブに金を捨てるようなものである。そして実は、有利子資金を調達しながら鉄道建設を行うこと自体が、いまや国際比較上当たり前のことではない。
例えばドイツである。ドイツでは鉄道改革当時、鉄道に対する莫大な設備投資を必要とする状況に陥っていた。もともと旧西ドイツ側でも道路やアウトバーンが優先され、鉄道への設備投資が遅れていたが、さらに旧東ドイツの国鉄の設備は劣悪で、分断されていた東西ドイツを結ぶ路線も早急に整備する必要があった。しかし赤字続きで巨額の累積赤字を抱える国鉄が莫大なインフラ整備を負担できるわけもなく、代わりに連邦政府が財政負担することに決めたのである。1999年から始まった鉄道改革の第二段階では、新線建設はすべて連邦政府の補助金で、改良工事は連邦政府からの無利子貸付金と鉄道事業者自身の内部留保で賄うこととした。日本のように、鉄道建設の資金調達を安易に有利子負債に求めず、全額を補助金等で財政負担する覚悟を決めたということは注目に値する。
それでは、既に巨額の借金をしてしまっている場合にはどうするのか。それは、少しでも低金利のローンに借り換えるというのが、社会的常識であろう。実際、JR東日本は、低金利時代の追い風を利用して低金利資金を調達し、その資金で国鉄時代の高金利の鉄道債を繰上げ返済することで、分割民営化前夜に7.13%もあった長期債務の平均利率を、その後10年で5%以下にまで抑えることに成功した。JR東日本の長期債務の額は5兆円近いので、2%の違いは年間1,000億円にもなる。
ところが、財投資金や開銀融資は繰上げ返済を制度的に許してこなかったし、新幹線債務などは、規定上は繰上げ返済が可能だったにもかかわらず、実際にはある「事件」まで繰上げ返済を認めてこなかった。できるだけ高金利で貸し付けたままにしておきたい政府側とJR側との温度差は広がるばかりである。比較的低金利とはいえ、繰上げ返済もできない財投資金にべったり頼って、単年度主義の場当たり行政に翻弄されるよりは、自社の経営内容に注意しながら市場での高い格付けを維持し、低金利のときにタイムリーに市場で資金調達をする方が、企業としてどれだけ健全なことか。JR東日本に限らず、財投脱却による資金調達の自立こそが、真の民営化の姿なのである。
そしてもう一つ、資金調達の自立でもっとも重要なことは、鉄道事業者自身に設備更新や新規投資のための内部留保をいかに確保させるかということである。少なくとも資金調達スキームに関しては、鉄道事業者の「自己決定原則」を貫かせるべきである。企業は、自らあげた利益に対して、それを処分する権利をもっていればこそ、今は多少我慢してでも利益をあげ、こつこつと内部留保の形で、将来の拡大投資のために貯えるのである。実際、民営化後の旧公社のパフォーマンス向上に本質的に重要だったものは「自己決定」であった。経営学的には、内部留保を含めた資金調達スキームの自己決定原則の確立こそが望ましい。
もう一度、国鉄の直接の破綻原因となった第三次長期計画について振り返っておこう。実はこの時期、国鉄は、新線建設ではなく、改良工事や設備更新の必要資金を高利の債券で調達したために、雪達磨式に負債が膨らみ、たった数年であっけなく経営が破綻してしまっていたのである。それでは、なぜ国鉄は、改良工事や設備更新の必要資金くらい、内部留保の形で用意しておけなかったのだろうか。その原因は、乱暴な言い方をすると、国鉄の内部留保分に対する政府と地方自治体の「たかり」にあった。1949(昭和24)年の国鉄発足以来、国の社会・文教・産業政策との関連で、通勤・通学定期、特別扱新聞紙・雑誌等の形で、国の肩代わりをさせられた運賃上の公共負担は1967(昭和42)年度までの累計で9,514億円に達する。さらに1956(昭和31)年度から地方財政健全化のために課された市町村納付金は1967(昭和42)年度までの累計で997億円になる。合計すると1兆0511億円もの資金が、国や地方自治体の手で国鉄からむしりとられていたことになる。この金額が、1965(昭和40)年度から着手した第三次長期計画の最初の3年間に、国鉄が調達した設備投資資金の合計額1兆0204億円とほとんど同額なのは、たんなる偶然であろうか。もしこれだけの資金が内部留保されていれば、国鉄は経営破綻しなくても済んだはずなのである。これがいずれ雪達磨式に借金約20兆円にも膨らむきっかけとなったのだから、随分と高くついたものである。その場しのぎで目先の金に群がれば、いずれはさらに高いつけとなって跳ね返ってくることになる。
社会的常識では、鉄道に限らず、施設の建設は長期のトータル・コストで考えるべきである。建設コストの他に、少なくともメンテナンス・コストや支払利息を計算に入れるべきである。この当たり前のことを実践させるために国民に許されたもっとも有効な選択肢は、会計検査院が検査の視点を変えることである。従来の会計検査院の検査は、一般に目の前の「モノ」に視野が限定されがちであった。しかし、いかなる検査対象も「ビジネス」としての広がりをもっている。トータル・コストの視点から、会計検査院が資金調達スキームの事前検査も行うようになれば、国鉄の例にもあるように、仔細な経営内容に立ち入らずとも、比較的容易に巨額の国損を未然に回避することができる。経営破綻まで行かなくとも、最初に投下する補助金・無利子貸付金の額を出し惜しみしていると、その分増えた有利子資金のせいで、長期的に見ると国民がかえって大きな負担を強いられることになるのは厳然たる事実なのである。
少なくとも、国鉄経営破綻前夜のように、当事者自身が危険信号を発している場合には、会計検査院は事前検査を率先して行うべきである。その際のポイントは、明らかに合規性ではない。合法的な資金調達スキームでも、利払いを含めた負債の返済計画が破綻していれば、常識的に考えてナンセンスなのである。どんなに非常識なものでも、法律さえ作ってしまえば不当事項として指摘されることはあるまいという「確信犯」に対して、会計検査院は自らの検査マインドに立ち返ってクレームをつけるべきである。事前検査が無理でも、せめて資金調達スキームをトータル・コストの視点から事後検査すると宣言すべきである。さすれば、補助金や無利子貸付金、さらには有利子の財投資金を使った資金調達スキームも変わらざるをえなくなるはずである。
日本国有鉄道(以下「国鉄」と略記)の経営破綻の原因として、これまでは、例えば、鉄道の地位低下や人件費膨張が挙げられることが多かった。しかしこの章では、国鉄の経営破綻を資金調達スキームの側面から捉え直すことにしよう。国鉄が1965(昭和40)年度から着手した第三次長期計画は、そもそも資金調達スキームの段階で破綻していたのである。
1963(昭和38)年5月10日に国鉄諮問委員会が国鉄総裁に提出した「国鉄経営の在り方について」は、1970(昭和45)年度の経営状態を試算し、借入金の償還・利払いなどによる「経営の完全破綻」を警告していた。『日本国有鉄道百年史』(以下『国鉄史』と略記)の第12巻(1973, p.161)によると、「今後の輸送需要は、十分と云えないまでも概ね満足できることを目どに、他の条件、すなわち運賃レベルは現状を維持し、ベース・アップ等は現状を維持もしくは現在までの趨勢を辿るものとして」経営状態の試算を行うと、1970(昭和45)年度には、
として、「これは経営の完全破綻以外の何ものでもない」と結論したのである。
実際、このうち3については、後でも触れるが、国鉄が調達した設備投資資金は、1965(昭和40)年度から3年間は、3,266億円、3,304億円、3,634億円とほぼ予想通りに推移し、全額が有利子負債である借入金と債券によるものであった。これは当初1965(昭和40)年度から1971(昭和46)年度までの7年間を予定していた第三次長期計画に基づいたものだったが、この長期計画はわずか数年で破綻し、1969(昭和44)年には「日本国有鉄道財政再建促進特別措置法」が制定され、これにより1968(昭和43)年度末の政府管掌債務に係る利子の再建期間中における事実上の棚上げ等の財政措置がとられた。そして1969(昭和44)年度からは財政再建計画に変更されたのである。
試算の結果と実際の数字とを比較してみよう。『昭和45年度 日本国有鉄道監査報告書』によると、1970(昭和45)年度決算は、
であった。途中で運賃値上げもあって、1の収入こそ多くなってはいるものの、2, 4は「経営の完全破綻以外の何ものでもない」と結論した試算結果よりもさらに悪い内容であった。
第三次長期計画は、当初1965(昭和40)年度から1971(昭和46)年度までの7年間に2兆9000億円の規模を計画していた。第二次長期計画までは国鉄独自に策定したものだったのに対して、第三次長期計画は、政府与党の国鉄基本問題調査会および政府の国鉄基本問題懇談会で審議され、1964(昭和39)年12月の経済関係閣僚懇談会及び1965(昭和40)年1月の閣議了解を得て強力に推進することとなっていた(『国鉄史』1973, Vol.12, p.646)。ところが、第三次長期計画はわずか数年で破綻し、1969(昭和44)年には「日本国有鉄道財政再建促進特別措置法」が制定され、1969(昭和44)年度からは財政再建計画に変更されてしまうのである。
その間、国鉄は一体何に設備投資をしていたのだろうか。そこで1965(昭和40)年度〜1968(昭和43)年度の工事費決算額でみてみると、全体で1兆3411億6000万円のうち、線路増設費3238億1000万円、車両費2903億2000万円、停車場設備費2114億7000万円と全決算の70%を占めていた。大都市通勤通学輸送力・幹線輸送力の増強、車両増補、電化、電車化、DC化および安全確保に重点が置かれていたといわれる(『国鉄史』1973, Vol.12, p.701)。実は、1963(昭和38)年度末に日本鉄道建設公団に新線建設工事が移行し、東海道新幹線も1964(昭和39)年度には開業しており、山陽新幹線増設工事が開始されたのは1967(昭和42)年度からである(『国鉄史』1973, Vol.12, p.696)。つまり、これほどの設備投資規模にもかかわらず、意外なことに、この時期の国鉄は新線建設をあまりしていなかったのである。したがって、この時期の国鉄の経営破綻の原因を赤字ローカル線となる新線建設と結び付けることは正しくない。
『国鉄史』(1973, Vol.12, pp.164-166)では、こうした国鉄の経営悪化の原因の一つとして、交通機関としての鉄道の地位低下で、運賃値上げにより思うように収入を確保できなくなったことを挙げている。この間、既に触れたように、運賃の値上げによる収入増加も画策され、1966(昭和41)年3月には、第三次長期計画の遂行に必要な資金を確保するために、旅客31.2%、貨物12.3%アップの運賃改訂が行われている。しかしこの時は、利用減などのために、8,239億円と予定していた運輸収入は実績7,684億円にとどまり、予定を大きく下回ったといわれる(『国鉄史』1973, Vol.12, p.162)。つまり、もはや運賃の値上げによって収入を確保することは困難な状況になっていたのである。
これは、鉄道の地位低下、すなわち輸送手段間の競争が激化したためである。『国鉄史』(12巻, pp.164-166)によれば、実際には、戦後直後、戦災によって内航海運がほとんど壊滅し、自動車も著しく弱体化していた特殊な時期にこそ、鉄道が高いシェアを誇っていたものの、その後、こうした輸送手段が回復するにしたがって、シェアが低下していった。1955年度〜1965年度で、国内総貨物輸送量(キロトン)が年平均8.6%成長した中で、鉄道は私鉄も含めて年平均2.8%しか成長しなかった。この間、内航海運が10.8%、自動車が17.7%もの成長を遂げたのと好対照をなしている。こうして、旅客にもまして貨物輸送の分野で国鉄の衰退は著しかったのである。このような多様な交通手段の競争的併存の時代を反映して、1966年3月に旅客31.2%、貨物12.3%アップの運賃改訂をした際には、とうとう予定していた運輸収入を確保することはできなくなっていたのである。
別の原因としては、人件費の急激な膨張も挙げられる(『国鉄史』1973, Vol.12, pp.168-170)。この間の仲裁裁定のベース・アップ率は6〜10%の高率を示し、しかもその率は次第に高くなっていった。仲裁裁定の完全実施のたびに、国鉄がその所要額を当初予算では賄いきれないほどであった。相次ぐベース・アップで職員一人当たりの人件費が大幅な上昇を示しただけではない、国鉄の職員の年齢構成が「中ぶくれ提灯形」をしていたために、この中ぶくれ部分に当たる6割を占める職員層が、1967(昭和42)年末には35歳以上50歳未満に到達し、年功賃金制で人件費がさらに急激に膨張したのである。損益勘定における人件費は、1960(昭和35)年度の1,863億円が、1967(昭和42)年度には3,849億円に倍増する。
しかし、試算結果が示した国鉄の「経営の完全破綻」の原因を鉄道の地位低下と人件費膨張に求めるのは正しくない。そもそも試算は、借入金の償還・利払いなどによる「経営の完全破綻」を警告したものなのである。今一度、注意深く試算の条件を見直して欲しい。「今後の輸送需要は、十分と云えないまでも概ね満足できることを目途に、他の条件、すなわち運賃レベルは現状を維持し、ベース・アップ等は現状を維持もしくは現在までの趨勢を辿るものとして」試算しているのである。つまり試算の際には、運賃とベース・アップは条件として現状で固定したままで計算しており、それでも試算上、経営は破綻すると結論を出していたことになる。
実際、鉄道の地位低下の問題は、確かに深刻な問題ではあるが、試算の時には想定していなかった運賃収入の増加自体は実現できたわけで、1の年収は試算よりも3,000億円以上上回っている。もう一つの要因である1963(昭和38)年の試算後に深刻化した人件費の膨張は、2の1,549億円の損失の発生という予測よりもさらに悪化した状況を作り出す要因にはなったが、もともと1963(昭和38)年の試算段階では想定されていなかった事態なのである。
つまり、そこで試算されていた経営破綻とは、事後的に表面化した鉄道の地位低下のせいでも、人件費の膨張のせいでもなく、資金調達スキームの失敗による破綻のことだったのである。輸送需要に追いつくためという大義名分の下に、資金調達の限界を超えて、3にあるように年間3,300億円もの新規投資を借入金で資金調達しながら続けた時に迎えるであろう結末を試算したものだったのである。巨額の有利子資金を調達した結果、4のように巨額に膨張した負債から生じる利息もまた膨らむわけで、既に2のようなぎりぎりの収支状況にある中で、仮に利息すら支払いきれなくなるという事態が出現すれば、利息を支払うためにさらなる借入金調達が繰り返され、負債が雪達磨式に膨らむ悪循環に陥るのである。鉄道の地位低下や人件費膨張といった経営内容に立ち入らなくても、資金調達スキームの失敗だけで、国鉄の経営破綻のシナリオはできていたことになる。
それでは、当時の国鉄は、長期資金をどのように調達していたのであろうか。実は、現在の鉄道事業者の資金調達スキームの常識からは想像しにくいことなのだが、当時の国鉄には、原則として補助金は交付されていなかった。補助金が交付されるようになったのは、国鉄の経営が悪化した後のことで、1969(昭和44)年の「日本国有鉄道財政再建促進特別措置法」に基づいて、損益補助を目的に、昭和43年度から開始された「工事費補助金」が最初である。つまり、この試算が行われた当時の国鉄は、補助金もなしに、内部留保と有利子資金だけをもとにして鉄道建設を行っていたことになる。
したがって、当時の国鉄では、概ね表1-1のように整理される長期資金の調達方法が用いられていた。これは、国鉄の経営が破綻したことで債務の棚上げのような事態を迎えるまでは変わりがない。長期資金の調達方法としては、形態的には、借入金と債券(鉄道債券)の二つに分けられ、さらに調達先によって財投資金と民間資金の二つに分けられる。こうした資金調達の枠組みは、基本的に、民営化後数年位までのJR各社をはじめとして、現在の鉄道事業者の一部にも引き継がれている。
表1-1. 国鉄の長期資金の調達方法
形態による分類 | 調達先(借入先・引受先)から見た分類 | |
---|---|---|
財投資金 | 民間資金 | |
借入金 | 財政投融資借入金 | 民間金融機関からの借入金 |
鉄道債券 | 政府引受債 | 政府保証債、特別債*、利用債*、縁故債* |
ここで注意が必要なのは、政府保証債は調達先で考えれば民間資金ではあるが、財政投融資(財投)の枠内として扱われるということである。財政投融資とは、国の制度・信用を背景として集められる各種の公的資金を財源にして行われる政府の投融資活動のことであり、歳出のように使い切ってしまうのではなく、資金を融通して金利を付して返済してもらう有利子資金の活用を指している。財政投融資計画は、
といった原資ごとに[1]、各年度の予算の一部として国会の審議、議決を経て決められている。このうち、4 政府保証債・政府保証借入金は、国鉄のような財投対象機関が自ら民間資金を調達するのではあるが、その際、政府(一般会計)がその元利払いを保証し、資金量、発行条件等の交渉も政府が一括してこれに当たることで信用力を高めているものである。政府は、毎年度、予算において定められた金額の範囲内で、債券あるいは借入金の債務保証を行っている。こうした事情があって、政府保証債は調達先で考えれば民間資金であるが、財政投融資の枠内として扱われるのである。
既に述べたように、1969(昭和44)年に制定された「日本国有鉄道財政再建促進特別措置法」により、1968(昭和43)年度末に財政措置がとられているので、その前年までのデータを示すことにすると、表1-2と図1-1のようになる。これからもわかるように、昭和30年代には設備資金の大半が財政投融資によって賄われていたものが、試算が行われた時から2年後、1965(昭和40)年度から国鉄が着手した第三次長期計画では、その初年度から始められた特別債の発行によって、財政投融資の比重が一挙に低下したのである。
表1-2. 国鉄の外部からの設備資金調達状況(実績)* (単位: 億円)
年度(西歴) (昭和) |
1955 | 1956 | 1957 | 1958 | 1959 | 1960 | 1961 | 1962 | 1963 | 1964 | 1965 | 1966 | 1967 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | |||
財 投 資 金 | 財政投融資 | 借入金 | 115 | 55 | 80 | 200 | 265 | 250 | 70 | 626 | 509 | 675 | 435 | 281 | 445 |
世銀借款 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 85 | 127 | 76 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
政府引受債 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 120 | 140 | 200 | 420 | 230 | 160 | 100 | 463 | ||
民 間 資 金 | 政府保証債 | 125 | 240 | 158 | 142 | 240 | 300 | 330 | 360 | 550 | 630 | 1,255 | 1,540 | 1,407 | |
財政投融資 以外 | 縁故債 | 0 | 0 | 0 | 35 | 45 | 0 | 70 | 55 | 120 | 110 | 100 | 145 | 138 | |
利用債 | 3 | 13 | 18 | 84 | 60 | 69 | 110 | 76 | 100 | 143 | 140 | 135 | 141 | ||
特別債 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1,176 | 1,103 | 1,040 | ||
調達総額 | 243 | 308 | 256 | 461 | 610 | 739 | 805 | 1,444 | 1,776 | 1,788 | 3,266 | 3,304 | 3,634 | ||
利子及び債務取扱諸費 | 97 | 116 | 136 | 156 | 178 | 240 | 229 | 252 | 252 | 386 | 646 | 835 | 1,012 | ||
財投資金の占める割合 | 47% | 18% | 31% | 43% | 43% | 50% | 37% | 66% | 57% | 51% | 18% | 12% | 25% | ||
財政投融資の占める割合 | 99% | 96% | 93% | 74% | 83% | 91% | 78% | 91% | 88% | 86% | 57% | 58% | 64% |
図1-1. 国鉄の設備資金に占める財政投融資の割合
ただし、財政投融資の比重が低下したといっても、その絶対額はむしろ増えているということには注意しなければならない。事実は、図1-2がよく表しているように、1965(昭和40)年度に第三次長期計画の着手にともない、それまで、毎年1,800億円にも達していなかった設備資金調達規模のところに、一挙に1,000億円以上の特別債を財投の枠外で発行して資金を追加調達したために財投の比重が低下したのである。『国鉄史』 (1973, Vol.12, pp.688-691)によれば、第三次長期計画の初年度に当たる1965(昭和40)年度の予算要求に際して、国鉄は財政投融資の大幅増額を要求したが、大蔵省は難色を示し、政府保証のない新しい鉄道債券、すなわち特別債の発行によって資金調達をすることになったという。
図1-2. 国鉄の外部からの設備資金調達状況
こうして、政府保証のないより高金利の特別債が財投の枠外で大量に発行されるようになったことで、1967(昭和42)年度には、資金コストは年利率で7.1%にも及び、支払利息は1955(昭和30)年度のなんと10倍強にも達するのである。この間の旅客収入の伸びが4.4倍、貨物収入の伸びが2倍であったことを考え合わせると、事態の深刻さがわかる(『国鉄史』1973, Vol.12, pp.162-163, p.167)。その結果、利子及び債務取扱諸費は急激に増加し、1967(昭和42)年度には1,012億円となり、特別債による調達額1,040億円とほぼ肩を並べるまでになった。しかも、表1-3と図1-3を見ればわかるように、この間に急増した利子及び債務取扱諸費の増加分のほとんどは、鉄道債券の利子だったのである。つまり、特別債の発行を始めた翌々年度には、もう既に特別債は鉄道債券の利子を支払うために発行しているような状態に陥ってしまったのである。こうして国鉄は、建前としては設備投資のために行っていたはずの長期資金の調達を建設資金の調達とは言い切れなくなる事態に陥った[2]。そのため、民営化の時には、以前「利用債」を買った地元自治体から、計画されていた電化工事や複線化工事が未完成のままであったことを指摘され、あの資金はどうなったのかという批判があったといわれている[3]。
表1-3. 国鉄の利子及び債務取扱諸費の推移
年度(西歴) (昭和) |
1955 | 1956 | 1957 | 1958 | 1959 | 1960 | 1961 | 1962 | 1963 | 1964 | 1965 | 1966 | 1967 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | |
長期借入金利子 | 8,176 | 8,451 | 9,163 | 9,620 | 10,240 | 12,355 | 12,231 | 13,701 | 13,982 | 16,899 | 23,436 | 23,197 | 23,266 |
世銀借入金利子 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 814 | 1,582 | 1,524 | 1,457 |
鉄道債券利子 | 1,214 | 2,879 | 4,123 | 5,507 | 6,939 | 11,490 | 10,603 | 11,405 | 11,088 | 20,569 | 38,321 | 57,179 | 74,891 |
債務取扱諸費* | 289 | 314 | 283 | 428 | 599 | 170 | 91 | 91 | 97 | 301 | 1,229 | 1,570 | 1,602 |
合計 | 9,679 | 11,643 | 13,570 | 15,555 | 17,778 | 24,015 | 22,925 | 25,197 | 25,168 | 38,582 | 64,569 | 83,470 | 101,216 |
図1-3. 国鉄の利子及び債務取扱諸費の推移
(億円)ところで、1965(昭和40)年度に第三次長期計画が始まるまでは、国鉄の設備資金の大半は政府保証債を含めた財投の枠内で調達されていた。それが大きく崩れるのは、既に述べたように、鉄道債券の一種で、政府保証のない「特別債」が財投の枠から外れて大量に発行されるようになってからである。実は、表1-4のように整理してみてもわかるように、1965(昭和40)年度に特別債が新設された以降、泥縄式に発行される特別債のために、鉄道債の種類は複雑な変遷を遂げることになり、特別債も様々に姿を変えていったのである。
表1-4. 特別債券新設以降の鉄道債券の種類と変遷
正式名称 | 1965年度発行実績 | 1987年度首残高 | 引受先等 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
種別 | 利率(%) | 償還期限(年)* | 種別 | 利率(%) | 償還期限(年)* | ||
政府保証鉄道債券 | 政府保証債 | 7.0 | 7(2) | 政府保証債 | 5.1〜8.8 | 10(3) | 個人その他及び都銀等金融機関よりなる引受シンジケート団 |
政府保証鉄道債券 | − | − | 変動, 6.04, 6.23 | 15(5) | 農林中央金庫、全信連、信託 | ||
は号特別鉄道債券 | 政府引受債 | 7.0 | 7(2) | 政府引受債 | − | − | 資金運用部及び簡易保険局 |
ぬ号特別鉄道債券 | − | − | 5.2〜5.6 | 10(3) | 資金運用部 | ||
特別鉄道債券 | 利用債 | 6.7 | 10(5) | 縁故債 | 6.0〜8.0 | 10(5) | 地方公共団体、民間会社等工事の受益者 |
ろ号特別鉄道債券 | 縁故債 | 7.3 | 7(2) | − | − | 国鉄共済組合、ち号債に代わる | |
に号特別鉄道債券 | 特別債券 | 7.3 | 7(2) | − | − | 地方自治体等 | |
ほ号特別鉄道債券 | 7.5 | 5(0) | − | − | 車両会社、建設会社、国鉄共済組合等 | ||
へ号特別鉄道債券 | 7.3 | 7(2) | 5.3〜8.9 | 10(3) | 金融機関、と号債新設以降は、関連会社 | ||
と号特別鉄道債券 | − | − | 5.4〜8.7 | 10(3) | 金融機関、1968年新設 | ||
ち号特別鉄道債券 | − | − | 5.4〜7.6 | 7(2) | 鉄道共済組合、ろ号債に代わって1970年新設 | ||
り号特別鉄道債券 | − | − | 5.8〜8.7 | 10(3) | 鉄道共済組合、1971年新設 |
『日本国有鉄道百年史』(以下『国鉄史』と略記)の第12巻(1973, pp.688-691)によると、既に述べたように、第三次長期計画の初年度に当たる1965(昭和40)年度の予算要求に際して、国鉄は財政投融資の大幅増額を要求したが、大蔵省が難色を示したために、政府保証のない新しい鉄道債券の発行によって資金調達をすることになったわけだが、それが、「に号債」「ほ号債」「へ号債」の3種の特別鉄道債券である。これが当時「特別債」と呼ばれていたものだった。ただし当時既に、特別鉄道債券自体は別に存在していたので、「特別債」=特別鉄道債券 ではないことには注意が要る。具体的には、表1-4にあるように、政府引受債は、は号特別鉄道債券であったし、縁故債も、ろ号特別鉄道債券であった。そのような中で、「に号債」「ほ号債」「へ号債」の3種の特別鉄道債券だけが当時「特別債」と呼ばれていたのである。この特別債は政府保証がなく、かつ引受先が予定されておらず、しかも非公募のために市場性に乏しいといった事情で、国鉄がその消化促進のために表1-4でもわかるように、利率等の発行条件を応募者にとって有利なものにせざるを得なかった。そのため、当初これらは1965(昭和40)年度だけの1年度限りの財源措置として発行されたのである。ところが、この特別債は1966(昭和41)年度以降も、発行が続けられた。そして複雑な変遷を遂げる。
このうち、車両会社・建設会社・資材メーカー等の関連会社、及び国鉄共済組合を対象として発行された「ほ号債」は、関連会社の資金繰りを考慮したために利率が高くなっていた。そこで、利子負担の軽減のために1966(昭和41)年9月に、関連会社の保有分を額面で買入償却している。1967(昭和42)年度以降、「ほ号債」は発行がなく、1971(昭和46)年度でその全額の償還が終わっている。
しかし、1966(昭和41)年9月に、関連会社の「ほ号債」を額面で買入償却した後、関連会社に対する発行は、もともと金融機関向けだった「へ号債」が当てられ、さらに起債環境の悪化の中で、発行価額を下げて応募者利回りを引き上げた「と号債」が1968(昭和43)年6月に新設されると、金融機関は「と号債」の引受に回り、「へ号債」の引受先は関連会社中心になった。
さらに従来、縁故債と呼ばれていた国鉄共済組合向けの「ろ号債」に代わって、1969(昭和44)年度からスタートした財政再建計画に協力して、1970(昭和45)年1月新設で政府保証債と同条件の「ち号債」を国鉄共済組合が引き受けるようになった。もっとも、1971(昭和46)年7月頃から金融情勢が大幅に緩和し、鉄道債券も利率引下げが行われた際には、国鉄共済組合引受の原資のうち、貯金経理については貯金利率が高いために、「ち号債」では逆ざやになってしまったので、新たに、発行価額を引き下げて応募者利回りを引き上げた「り号債」を貯金経理向けに1971(昭和46)年12月に新設している。この長期金利の低下傾向は1972(昭和47)年に入っても続いたので、7月には政府保証債、8月には「へ号債」「と号債」「り号債」の償還期限が10年に延長されている。
こうして、当初「に号債」「ほ号債」「へ号債」の3種の特別鉄道債券だけで1年度限りの財源措置だったはずの「特別債」は、様々に派生し姿を変えていき、分割民営化の頃には、利用債(正確には「特別鉄道債券」)と「へ号債」「と号債」「ち号債」「り号債」を「縁故債」と総称するようになっていたのである。
そして、国鉄の末期、1986(昭和61)年度末には、縁故債の期末残高は7兆1389億円と大きく膨らみ、国鉄の長期債務(=長期借入金及び債券)の期末残高の約36%にも達していたのである。こうした特別債の派生の過程を見ていると、財投の枠のような歯止めや限界を超えて、より高金利で巨額の有利子資金を国鉄自身に自己調達させるようなことを安易に続けていくと、資金調達の問題は、経済性とは無縁の単なる資金繰りの問題と化してくることがわかる。そして注目すべきは、関連会社の資金繰りを考慮して「ほ号債」の利率を高く設定したり、低金利で逆ざやを起こしていた国鉄共済組合の貯金経理向けに利率を引き上げた「り号債」を新設したりと、もはや経済性とは別の論理が働くようになってしまっていたという事実である。
こうした大きな枠組みを踏まえて、国鉄時代の長期資金のより具体的な調達方法を整理すると表1-5のようになる。これは一般勘定と呼ばれるもので、この他にも、国鉄の経営悪化後は、経営悪化を取り繕うための補助金や特別勘定が存在していた。逆の言い方をすれば、現在の鉄道事業者の資金調達スキームの常識からは想像しにくいことなのだが、国鉄の経営が悪化するまでは、原則として国鉄に対して補助金は交付されていなかったし、一般会計からの借入金もなかったのである。
表1-5. 国鉄の長期資金調達(一般勘定) 1984(昭和59)年度末現在
種別 | 利率(%) | 償還期限(年)* | 償還方法/消化先 | |
---|---|---|---|---|
一 般 会 計 | 国債整理基金 | 4.0 | 36(0) | |
7.966 | 10(0) | |||
8.328 | 10(0) | |||
地方交通線特別貸付金 | 無利子 | 25(3) | 年2回元金均等 | |
財 投 | 資金運用部 | 6.5〜8.5 | ||
簡易保険局 | 6.2〜8.7 | |||
民間借入金 | 7.2〜8.0 | 7〜10(0.5) | 契約によって異なる | |
鉄 道 債 券 | 政府保証債 (財投の枠内) | 6.6〜7.4 | 10(3) | 個人その他及び都銀等金融機関よりなる募集引受団等 |
7.18, 7.31 | 15(5) | |||
利用債** | 6.5〜7.3 | 10(5) | 地方自治体、民間会社等工事の受益者 | |
へ号債** | 6.6〜7.4 | 10(3) | 車両会社、建設会社等関連会社 | |
と号債** | 6.7〜7.5 | 10(3) | 都銀・長銀、地銀・相銀、信託、生保、農林金融機関等 | |
ち号債** | 6.5〜7.4 | 7(2) | 国鉄共済組合 | |
り号債** | 6.6〜7.4 | 10(3) |
国鉄に対する補助金は、1969(昭和44)年の「日本国有鉄道財政再建促進特別措置法」に基づいて、昭和43年度から受け入れが開始された「工事補助金」が最初である。これは名称にもかかわらず、損益補助を目的としており、設備投資資金の一部に係る借入金の利子補給のための補助金で、損益上の収入として受け入れられていた。設備投資に対する補助金は、1977(昭和52)年度から交付されている。
他方、国の一般会計からの借入金として、一般勘定では、例えば、1951(昭和26)年12月20日に車両費(貨車製作)充当のために政府(運輸省)からの借入金(無利子無期限)約20億円がある。しかし、国の一般会計からの借入金はそのほとんどが特別勘定(特定債務整理特別勘定)であった。これは債務の棚上げ関係のもので、その総額は5兆3,221億円、内訳としては、一般会計からの財政再建借入金の残高が2,622億円、資金運用部からの特定長期借入金の残高が5兆599億円であった。この残高は、据置期間となっていた1980(昭和55)年度から1984(昭和59)年度まで変動がないだけではなく、分割民営化の直前1986(昭和61)年度末まで変動がない。債務の棚上げは、次のようにして行われた。
国鉄の経営が悪化した後は、国鉄に対する国の増資と補助金交付が始まり、これらは国鉄の資金調達において無視できない規模に達していた。まず、国鉄発足当時から途絶えていた増資は、1971(昭和46)年度〜1975(昭和50)年度の間、毎年度行われるようになった。それは、表1-6に示されているように、1973(昭和48)年度には、1,950億円とピークを迎える。このときは工事費800億円、損益対応1,150億円という内訳であったが、表からもわかるように、その時々の国の予算の説明からも、工事費の充当を目的としたケースがほとんどであった。
表1-6. 国鉄に対する政府出資の経緯
年度 | 出資額(億円) | 摘要 |
---|---|---|
1949(昭和24) | 49* | 国鉄発足時の国有鉄道事業特別会計からの承継 |
1950(昭和25) | 40 | 工事費** |
1971(昭和46) | 35 | 工事費(基幹施設増強費) |
1972(昭和47) | 656 | 在来線工事費556億円、東北新幹線100億円 |
1973(昭和48) | 1,950 | 工事費800億円、損益対応1,150億円 |
1974(昭和49) | 1,130 | 工事費650億円、損益対応 480億円 |
1975(昭和50) | 700 | 工事費 |
計 | 4,560 | 国鉄清算事業団資本金へ |
増資が終わった後には、1977(昭和52)年度から分割民営化直前の1986(昭和61)年度まで、今度は国鉄の設備投資に対する国の補助金が毎年度交付されることになる。表1-7、図1-4に示されるように、補助金の額は全体で1978(昭和53)年度〜1981(昭和56)年度は4、5百億円規模に達していた[4]。補助金の対象としては、特別施設整備費、整備新幹線建設調査費といった事業助成費、そして防災事業費、磁気浮上方式鉄道技術開発費があったが、図1-5でも明らかなように、対象事業によって、補助率は異なっていた。
表1-7. 国鉄の補助金対象工事の年度別推移(実績ベース*) (金額単位: 億円)
年度(西暦) (昭和) | 1977 | 1978 | 1979 | 1980 | 1981 | 1982 | 1983 | 1984 | 1985 | 1986 | 計 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60 | 61 | ||||
事 業 助 成 費 | 特別施設 整備費 | 対象工事費 | 625 | 1,132 | 1,171 | 1,354 | 1,542 | 546 | 310 | 119 | 53 | 59 | 6,911 |
補助金 | 169 | 311 | 380 | 288 | 327 | 88 | 78 | 49 | 37 | 37 | 1,764 | ||
補助率 | 27.0% | 27.5% | 32.5% | 21.3% | 21.2% | 16.1% | 25.2% | 41.2% | 69.8% | 62.7% | 25.5% | ||
整備新幹線 建設調査費 | 対象工事費 | 20 | 18 | 19 | 11 | 7 | 13 | 15 | 15 | 118 | |||
補助金 | 20 | 18 | 19 | 11 | 7 | 13 | 15 | 15 | 118 | ||||
補助率 | 100.0% | 100.0% | 100.0% | 100.0% | 100.0% | 100.0% | 100.0% | 100.0% | 100.0% | ||||
防災事業費 | 対象工事費 | 158 | 162 | 163 | 169 | 164 | 156 | 138 | 120 | 214 | 1,444 | ||
補助金 | 87 | 99 | 97 | 98 | 95 | 90 | 81 | 68 | 110 | 825 | |||
補助率 | 55.1% | 61.1% | 59.5% | 58.0% | 57.9% | 57.7% | 58.7% | 56.7% | 51.4% | 57.1% | |||
磁気浮上方式鉄道 技術開発費 | 対象工事費 | 2 | 20 | 10 | 12 | 6 | 6 | 6 | 6 | 68 | |||
補助金 | 1 | 10 | 5 | 6 | 3 | 3 | 3 | 3 | 34 | ||||
補助率 | 50.0% | 50.0% | 50.0% | 50.0% | 50.0% | 50.0% | 50.0% | 50.0% | 50.0% | ||||
全体 | 対象工事費 | 625 | 1,290 | 1,355 | 1,555 | 1,740 | 733 | 479 | 276 | 194 | 294 | 8,541 | |
補助金 | 169 | 398 | 500 | 413 | 449 | 200 | 178 | 146 | 123 | 165 | 2,741 | ||
補助率 | 27.0% | 30.9% | 36.9% | 26.6% | 25.8% | 27.3% | 37.2% | 52.9% | 63.4% | 56.1% | 32.1% |
図1-4. 国鉄に対する補助金
(億円)
図1-5. 国鉄の補助金対象工事の補助率
ここで「特別施設整備費補助金」とは次の四つの補助金を括ったものである。
このうち2〜4の補助率は50%だったが、1は国の財源の都合により、年度によって27%、30%、35%と変化し、かつ途中年度から「分割交付」になり、補助対象工事も順次縮小されるなど毎年度のように変更があった。この他の「防災事業費補助金」の補助率は工事内容によって1/3〜2/3、「磁気浮上方式鉄道技術開発費補助金」の補助率は1/2だった。
ところで、整備新幹線建設調査費などは補助率100%であったが、国鉄に対する補助率は全体では32%にしかならない。当時、国の補助金については、50%を超える補助率というのは、本来、国が行うべき事業そのものに近いということになり、補助金制度としてはおかしいという議論も行われていたといわれる。
こうした経過をたどって、1965(昭和40)年度からスタートした第三次長期計画は、1969(昭和44)年度からスタートした財政再建10ヵ年計画に吸収される。しかし、このような資金調達の限界を超えた設備投資は、1964(昭和39)年3月に鉄道公団が設立され、鉄道公団自身が有利子資金を調達できるようになり、政治の後押しの中で新線建設が積極的に推進されるようになると、結局は歯止めがかからなくなってしまった。
当時、建設にあたって有償資金を投入する国鉄新線については、1964(昭和39)年3月23日の大蔵省主計局長・大蔵省理財局長・運輸省鉄道監督局長間の覚書に基づき、当該鉄道施設の建設着工前に、当時の国鉄と鉄道公団との間で文書で確認されている。これらの確認書により決定された線に限定して有償資金が投入された。有償資金を除いた財源については、1978(昭和53)年度までは政府出資金、1979(昭和54)年度以降は国庫補助金が当てられていた。このため、国鉄は本来、輸送需要から見て採算的に自立経営が可能な(営業係数100以下の)幹線からの利益を国鉄全体の赤字補填に回す羽目になり、多様な交通機関の競争的併存の時代にあって、幹線系線区での競争力をますます衰退させる結果となったのである。
以上のような考察から、本書では、鉄道事業者の資金調達スキームに着目することにした。既に述べたように、経営内容に立ち入らずに、資金調達スキームだけでも、国鉄の経営破綻のシナリオはできていたのである。つまり、雪達磨式に負債が膨らんだ直接の原因は、資金調達スキームの失敗であり、それまでの資金調達の限界を超えた巨額の設備投資であった。国鉄の場合、その「限界を超えた」ことの象徴が、財投の枠を超えて、大量の資金をより金利の高い特別債で市中調達するようになったことだったのである。
当初予算に従い、その枠内(「支出権」)で調達した資金が弾力的に他の目的に使用されることが直ちに違法行為だったわけではない(国鉄法第39条の14)。年度の資金計画上は、たとえば設備投資に対して長期借入金といった資金の性質に応じた対応関係を見ることが出来るが、資金は国鉄全体として回ればいいのであり、期中の実際の資金繰りの中では、設備投資の補助金が職員のボーナス支払いに充てられることも、逆に損益補助金の受入額が直近の工事費の支払いに充てられることもあっていいのである。
この他にも、1953(昭和28)年の国鉄法の第二次改正で「予算の弾力性」が明文化され(『国鉄史』1973, Vol.12, pp.604-605)、国鉄法第39条には「日本国有鉄道の予算には、その事業を企業的に経営することができるように、需要の増加、経済事情の変動その他予測することができない事態に応ずることができる弾力性を与えるものとする。」という条文もある。同様の条文は、日本電信電話公社法第40条、日本専売公社法第34条にも見られ、旧3公社に共通のものであった。ただし一般的には、予算の弾力条項とは、歳出予算の金額を歳入の増加その他一定の条件の下で増減することを認める予算総則の規定をいうのであって、通常、予算の議決は限度額の議決と考えられるので、歳出の減額にはこうした規定は不要であり、弾力条項は歳出の増額を規定したものであるとされている(井上, 1985, p.83)。もっとも、1953(昭和28)年の国鉄法の第二次改正で「予算の弾力性」についての第39条が新設される以前から、予算総則には国鉄予算の「弾力条項」は存在していた。また、設立法において、国鉄法第39条のような「予算の弾力性」を与えられていない国民金融公庫、日本開発銀行などの特殊法人についても、予算総則には「弾力条項」が置かれている。このことから、国鉄法第39条の弾力性の内容は、予算総則の弾力条項に限定されるものではなく、予算の全般に及ぶものだという解釈もあった(日本国有鉄道法研究会, 1973, pp.153-154)。
そして国鉄時代は、正確に言えば、路線や区間ごとに調達資金コストを特定したコスト計算が行われていたわけではなかった。線区別に行われていたいわゆる営業係数の計算も国鉄全体にかかっていた利子を何らかの基準で配分したもので、その意味では丼勘定であった。『国鉄史』(1973, Vol.12, pp.623-626)によれば、国鉄は、1949(昭和24)年6月に公共事業体に移行した直後の11月には独立採算制推進委員会を設け、翌1950(昭和25)年3月には、経済計算規程案を作成している。経済計算は、次の2種に分かれていた。
ただし混乱期のために、当初は経営費計算は先送りされ、運送原価計算のみが試行された。その後、1953(昭和28)年4月になって「日本国有鉄道経済計算規程」が制定され、1953(昭和28)年度から全面的な実施となったのである。運送原価計算は線別・鉄道管理局別および運輸別の原価計算を行うものであるが、このうち線別原価計算において、輸送量・収入および運送原価を細線別に計算し、線別の固定資産の回転率、営業係数、輸送量、車両キロ当たり原価、運輸密度と原価の関連等を把握することになっていた。このうち利子の配分基準は、当初は車両以外の償却資産の帳簿価額を基準に配分していたが、これでは、戦後の投資額の大きい線区は高い配分となるとして、1954(昭和29)年度の改正で、換算車両キロを基準とするように改められた。しかし、この方式では、車両の運用効率を上げれば上げるほど利子の負担額が増加してしまうので、さらに、1961(昭和36)年度からは、(i)償却資産については資産取得時から定率で減価償却を行ったものとみなして算出した残価額、(ii)取替資産については帳簿価額の2分の1、(iii)永久資産については帳簿価額、をそれぞれ正味資産として、それを基準に線区別に配分することに改められた。こうして、日本国有鉄道経済計算規程は改正を繰り返したために、これらを整理統合して1964(昭和39)年5月に「経済計算事務規程」が制定され、さらに同年7月に「経済計算事務基準規程」と改称された。そして、コンピュータによる計算能力の向上を利用し、さらに強力な意思決定資料としての経営計画の策定及び設備投資経済計算に利用するため、1966(昭和41)年5月に鉄道運送原価計算研究会が設置され、同年12月に報告された研究成果が同年度の原価計算制度に取り入れられている。
[1]財投は現在でも、官民を問わず鉄道事業者にとって重要な財源であるが、財投自体の財源(原資)は次の四つから構成されている(大蔵省理財局, 1993, ch.1)。
[2]もちろん「日本国有鉄道法」(以下「国鉄法」と略記)では、国鉄の予算は国会承認事項だったので、予算、事業計画だけでなく、損益勘定、資本勘定を問わず、支出予算額を賄うための自己資金を含めた「資金計画」が予算の添付書類として国会提出されていた(国鉄法第39条の2)。しかも、国会の議決を経た予算に基づいて、四半期ごとに資金計画を定め、これを運輸大臣、大蔵大臣、会計検査院に提出していた(国鉄法第39条の16)。また補助金に関しては、補助金適正化法(「補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律」)で、規制されており、目的外使用は最高懲役3年の刑罰になる。しかし、当初予算に従い、その枠内(「支出権」)で調達した資金が弾力的に他の目的に使用されることが直ちに違法行為だったわけではない(国鉄法第39条の14)。これについては付録を参照のこと。
[3]ただし、工事が未完成だということで、利用債引受団体との間で争いにまで発展したケースはなかった。こうした背景には、「○○線複線化期成同盟」といった利用債の引受団体の多くが、地元自治体の首長を代表とする非永続的なものだったこと、また、利子支払や元金償還自体はきちんと行われていたというような事情もあったと考えられる。 駅舎や電化等の工事は、工期が単年度か長くても2〜3年がほとんどだったといわれるが、線路増設は用地の買収を伴うこともあって長期間を要する場合が多く、その間の線区をめぐる経営環境の変化等から工事の継続が困難となり、未完成のままになるケースも出てきたと考えられる。国鉄民営化当時の整理では、利用債が関係した工事で未完成だったものとして13件が挙げられているが、これらはすべて線路増設(複線化)関係で、工事件名としてJRに承継されたものが10件、非承継が3件となっていた。大臣認可がからんだ線路増設工事は、工事件名の継承がない場合には、工事再開の場合には再度JRによる認可申請が必要と考えられていたために、国鉄末期に事実上工事が中断していた件名についても、できるだけ承継する方向で調整が行われたといわれている。工事件名ごとの整理では、いずれの場合も利用債の起債額よりも工事実績総額の方が上回っているが、承継された件名のうちの3件と非承継3件については、理由は不明だが工事実績が不足していると整理されていた。
[4]国鉄の設備投資に対する補助金は、工事実績にしたがって交付され(後払い)、また国の予算の繰越制度の存在により、予算に計上された年度と受入れ年度がずれることがあるので注意がいる。ここで示されている数字は実績ベースの数字である。
第1章で論じたように、国鉄の資金調達問題は、鉄道建設資金だけではなく、鉄道維持資金も含めた設備投資資金の調達問題であった。しかし、老朽施設の取替や安全・安定輸送対策のための設備投資は、本来は減価償却費の範囲内で行われるべきものであって、資金調達スキームの議論には馴染みにくい。そこで、本書ではこれ以降、鉄道建設資金に的を絞って、日本の鉄道事業の資金調達スキームについて考察を進めることにしよう。
そこで、この章では、現時点での、鉄道建設の際の資金調達スキームの現状と問題点を探ることにしたい。まず第2節では、現在、民間も含めて日本での鉄道建設資金調達スキームに重要な役割を果たしている運輸施設整備事業団と日本鉄道建設公団(以下「鉄道公団」と略記)を通した資金の流れを整理する。これを踏まえた資金調達スキームの応用問題として、第3節では、ケース・スタディー的に営団地下鉄と都営地下鉄の地下鉄建設費の資金調達スキームを解説する。その上で、第4節では、地下鉄建設費の資金調達スキームの比較を行い、運営費補助方式が結局は利子補給にしかならなかったこと、それに比べて、一括交付の資本費補助方式の方が、より少ない出資金額・補助金額にもかかわらず、地下鉄事業者の実質負担を大幅に軽減し、収益構造の改善に貢献することを明らかにする。
こうした結果は、鉄道建設も鉄道経営も基本的には金利との競争であるということに起因している。実際、分割民営化後の東日本旅客鉄道株式会社(以下「JR東日本」と略記)は、旧国鉄債務を背負った金利との競争の中で、負債額と平均金利の圧縮に成功してきた(高橋, 2000)。本稿の主張は単純でかつ当たり前のことである。結論的にいえば、官民を問わず、巨額の有利子資金を利用して行われる鉄道建設とその後の鉄道経営は、金利との競争である。特に、補助金が投入される場合には、優先順位を明確につけて、補助金を資本費補助として建設時に集中投入し、有利子資金額と工事期間(正確には着工から開業までの期間)の両方をできるだけ圧縮することが肝要である。さもなくば、鉄道事業の収益構造自体が悪化してしまい、せっかくの補助金投入も利子補給にも満たないことになってしまうのである。にもかかわらず、これまでは国が補助金を広範かつ長期にわたって薄くばらまくという逆のことをしてきたように見える。資金調達スキームという言葉自体がほとんど意味を失っていた場当たり的行政も目に付く。そのつけを回す形で、鉄道建設費の不足分や繋ぎ資金を鉄道事業者自身に有利子資金として自己調達させるということを安易に続けさせていると、開業までの工事期間の間に利子でさらに有利子負債の額が膨らみ、鉄道事業そのものの収益構造の悪化を開業前に決定的なものにしてしまう。支払利息で営業利益が吹き飛ぶような状況下に置かれていては、いくら営業努力を積み重ねても報われず、いつしか営業努力自体も忘れ去られることになるだろう。
現在の日本で、民間も含めて鉄道事業者の鉄道建設の資金調達スキームに重要な役割を果たしているのが、運輸施設整備事業団と日本鉄道建設公団(鉄道公団)である。この両者を通じて投入される補助金、交付金、無利子貸付金、財政投融資資金、そして市中調達資金が日本の鉄道建設の資金調達スキームの基本的な枠組みを形成している。
鉄道整備基金は、国鉄分割民営化時に設立された新幹線鉄道保有機構が解散する時に、同機構の一切の権利及び義務を承継するものとして(新幹線鉄道に係る鉄道施設の譲渡等に関する法律第5条、及び鉄道整備基金法 附則第4条1項)、1991(平成3)年10月1日に設立された。さらに、1997年10月1日には 鉄道整備基金と船舶整備公団が統合されて運輸施設整備事業団が設立されたが、1998年9月1日現在の職員数は134人で、旧鉄道整備基金の事業はそのまま継続されており、両者は別会計になっている。鉄道整備基金が設立されたことに伴い、それまで運輸省から直接交付していた各種補助金は、一旦、鉄道整備基金を経由して交付されるようになった。その意味では、補助金のトンネル会社的な存在である。この他にも、鉄道整備基金時代から、JR本州3社から入ってくる既設新幹線譲渡代金をさらに整備新幹線の建設資金に交付金として交付したり、あるいは地下鉄建設などに無利子貸付金として貸し付けたりもしている。
国庫からの補助金は運輸施設整備事業団(旧鉄道整備基金)を経由して鉄道公団等に流れるようになっているので、資金調達と投資というよりも、単に資金の流出入に携わっているといった方が実態に近いが、運輸施設整備事業団の資金の出入りは表2-1のように整理される。その助成業務の多くが鉄道公団がらみであることは一目瞭然である。金額的にいえば、鉄道公団に対する助成業務に地下鉄に対する助成業務を加えたものが中心となる。
表2-1. 運輸施設整備事業団(鉄道関係=旧鉄道整備基金*)の資金の流出入(1997(平成9)年度決算)
助成業務・補助金名等(資金の供給先) | 鉄道公団の事業名 | 補助率 交付率 貸付率 (%) | 資金の調達先 | 計 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
一般 財源 (国庫 補助金) | 特定財源 (本州JR3社 からの 既設新幹線 譲渡代金) | 無 利 子 貸 付 金 回 収 金 | 運 用 益 | 借入金 | |||||||
諸 費 ** | 交 付 金 | 無利子 貸付金 | 民間借入・ 三島経営 安定基金 | ||||||||
整備新幹線 建設助成業務 | 新幹線鉄道整備事業交付金 | 新幹線 | 定額 | 724 | 1,043 | ||||||
新幹線鉄道整備事業費補助 | 新幹線 | 定額 A | 277 | ||||||||
整備新幹線建設推進高度化等事業費補助金 | 新幹線 | 100 | 35 | ||||||||
整備新幹線建設推進準備事業費補助金 | 新幹線 | 100 | 5 | ||||||||
整備新幹線駅整備調整事業費補助金 | 新幹線 | 100 | 3 | ||||||||
主要幹線鉄道 整備助成業務 | 新幹線新線調査費補助金 | 新線調査 | 100 | 4 | 179 | ||||||
幹線鉄道整備費無利子貸付金 | 主要幹線鉄道線 | B | 15 | ||||||||
幹線鉄道等活性化事業費補助 | 幹線鉄道高規格化事業 | 20 | 4 | ||||||||
地方開発線及地方幹線建設費補助金 | 地方鉄道新線(AB線) | 100 | 156 | ||||||||
都市鉄道 整備助成業務 | 貸付線及譲渡線建設費等利子補給金 | 民鉄線・貸付線(CD線) | C | 13 | 965 | ||||||
都市鉄道整備費無利子貸付金 | 都市鉄道線(営団分も含む) | 40 | 319 | ||||||||
ニュータウン鉄道整備事業費補助 | 18 | 27 | |||||||||
幹線鉄道等活性化事業費補助 | 20 | 1 | |||||||||
地下高速鉄道整備事業費補助 | 35 | 605 | |||||||||
リニア等鉄道技術開発推進助成業務 | 25か50 | 46 | 46 | ||||||||
安全・防災対策等助成業務 | 多種 | 38 | 38 | ||||||||
助成等の計 | 1,213 | 724 | 335 | 2,272 | |||||||
債務償還・利払等 | 2 | 6,365 | 16 | 6 | 2,412 | 8,801 | |||||
管理費等 | 4 | 9 | 2 | 15 | |||||||
資金流入額計 | 1,217 | 11 | 7,424 | 16 | 8 | 2,412 | 11,088 |
一方、鉄道公団は1964(昭和39)年3月23日に設立されている。1998年9月1日現在の職員数は1,790人だが、いわゆる土木屋も直接工事をしているわけではなく、施行管理に当たっている。鉄道公団は運輸施設整備事業団から流れてくる補助金、交付金、無利子貸付金に加えて、独自のルートで、表2-2に整理されているような無利子借入金、財投・民間からの有利子借入金、そして鉄道建設債券による資金調達をしている。鉄道公団は、これらの調達資金を事業ごと(路線・区間ごと)に特定の資金調達スキームに則ってミックスし、建設工事資金として投入しているのである。その様子は、鉄道公団の事業ごとに、表2-3のように整理される。ただし、1955(昭和30)年に制定された地方財政再建特別措置法第24条2項の規定により、別に法律で定めた場合(例えば、整備新幹線のような場合)を除いて、地方自治体が公団に対して、直接、補助金等を出せないことになっている。こうした事情が背景にあるために、直接的・形式的には第三セクターのような鉄道事業者が資金を出しているように見えるケースでも、実際にはその鉄道事業者を経由して地方自治体等が資金を出している場合がある。こうした場合には、この表2-3では、その究極的な資金源、つまり地方自治体等の方を記載している。
表2-2. 鉄道公団の資金調達
調達先 | 時期 | 償還方法 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
償還期限(年)* | 元金均等(分割) | ||||||||
借 入 金 |
有 利 子 |
(a)資金運用部 | 貸付線 | 設立時(1964年3月) | 15(3) | ○(半年賦) | |||
1965年4月〜73年5月 | 25(3) | ○(半年賦) | |||||||
1973年6月〜 | 30(5) | ○(半年賦) | |||||||
譲渡線 | 1972年9月〜 | 25(3) | ○(半年賦) | ||||||
(b)民間 | 1978〜80年度 | 1(0) | 満期一括 | ||||||
1979〜83年度 | 7(3) | ○(半年賦) | |||||||
1980年度 | 10(0.5) | ○(半年賦) | |||||||
1981年度〜 | 10(3) | ○(半年賦) | |||||||
無 利 子 |
(c)産業投資特別会計 | 1989〜92年度 | 10(5) | ○(半年賦) | |||||
(d)運輸施設整備事業団 (旧 鉄道整備基金) |
1991年度〜 | 15(5) | ○(半年賦) | ||||||
1997年度〜** | 16(6) | ○(半年賦) | |||||||
(e)都市鉄道整備事業資金 | 1992〜96年度 | 15(5) | ○(半年賦) | ||||||
1997年度〜 | 18(8) | ○(半年賦) | |||||||
(f)地方鉄道整備促進資金 | 1993年度 | 貸付の翌年度から 2年以内に毎年度の予算で定めた額以内 | |||||||
1994年度〜 | 貸付最終年度の翌年度から 3年以内に毎年度の予算で定めた額以内 | ||||||||
鉄 道 建 設 債 券 |
(g)政府保証債(公募) | 1967年度〜72年6月 | 7(2) | 年2回各3%以上 | |||||
1972年7月〜87年3月 | 10(3) | ||||||||
1987年4月〜 | 10(0) | 満期一括 | |||||||
(h)政府引受債 | 資金運用部 | 1967年度〜72年6月 | 7(2) | 年2回各3%以上 | |||||
1972年7月〜87年3月 | 10(3) | ||||||||
1987年4月〜 | 10(0) | 満期一括 | |||||||
簡保資金 | 1989年度〜97年度 | 10(0) | 満期一括 | ||||||
(i)特別債(公団債) | 地方協力団体 | (ろ号債) | 1965年度〜70年6月 | 7(2) | 年1回各6%以上 | ||||
1970年7月〜72年7月 | 7(2) | 年2回各3%以上 | |||||||
1972年8月〜92年4月 | 10(3) | ||||||||
1992年5月〜 | 10(0) | 満期一括 | |||||||
工事関連業界 | (い号債) | 1965年7月〜67年8月 | 5(0) | 年1回各6%以上 | |||||
(は号債) | 1965年度〜72年7月 | 7(2) | 年2回各3%以上 | ||||||
1972年8月〜87年4月 | 10(3) | ||||||||
1987年5月〜 | 10(0) | 満期一括 | |||||||
金融機関 | (に号債) | 1968年度〜72年7月 | 7(2) | 年2回各3%以上 | |||||
1972年8月〜87年4月 | 10(3) | ||||||||
1987年5月〜 | 10(0) | 満期一括 | |||||||
(ほ号債) | 1972年11月〜87年4月 | 10(3) | 年2回各3%以上 | ||||||
1987年5月〜 | 10(0) | 満期一括 |
表2-3. 鉄道公団の事業(1997(平成9)年度決算)
事業名 | 工事線・調査線 | 工事・調査資金の調達方法 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
線名 | 区間 | 公団 調達 | 運輸施設整備事業団 | 地方自治体 | 鉄道 事業 者等 | |||||
国庫 補助金 | 交 付 金 | 無利子 貸付金 | 補助金 出資金 負担金 | 無利子 貸付金 | ||||||
新幹線 | 北陸新幹線 | 高崎・長野間 | 貸 付 料 等 | 2/3* (うち交付金 計は定額の 724億円) |
1/3* | |||||
石動・金沢間 | ||||||||||
糸魚川・魚津間 | ||||||||||
長野・上越間 | ||||||||||
東北新幹線 | 盛岡・八戸間 | |||||||||
八戸・新青森間 | ||||||||||
九州新幹線 | 八代・西鹿児島間 | |||||||||
船小屋・新八代間 | ||||||||||
大 都 市 交 通 線 |
都市鉄道線 | 常磐新線** | 秋葉原・つくば間 | 6% | 40% | 14% | 10% | |||
札沼線** | 八軒・あいの里教育大間 | 50% | 4% | |||||||
筑肥線** | 下山門・筑前前原間 | 51% | 3% | |||||||
民鉄線 | 西武8号線 | 練馬・小竹向原間 | 「民鉄線工事にみる鉄道公団の ファイナンス機能」の本文参照 | |||||||
西武池袋線 | 練馬・石神井公園間 | |||||||||
東武伊勢崎線 | 竹ノ塚・北越谷間 | |||||||||
東武伊勢崎線(2) | 曳舟・業平橋間 | |||||||||
東武東上線(2) | 森林公園・小川町間 | |||||||||
小田急小田原線(2) | 東北沢・和泉多摩川間 | |||||||||
東西線 | 御陵・三条京阪間 | |||||||||
東京モノレール羽田線 | 整備場・新東ターミナル 間 | |||||||||
みなとみらい21線 | 横浜・元町間 | |||||||||
埼玉高速鉄道線 | 鳩ヶ谷中央・浦和大門間 | |||||||||
臨海副都心線二期 | 東京テレポート・大崎間 | |||||||||
主要幹線 鉄道線 |
東海道線(貨物) | 東京貨物ターミナル・ 大阪貨物ターミナル間 | 70% | 30% | ||||||
高徳線 | 高松・徳島間 | 50% | 50% | |||||||
地方鉄道 新線(AB線) |
宿毛線*** | 宿毛・中村間 | 100% | |||||||
井原線*** | 総社・神辺間 | |||||||||
阿佐線*** | 後免・奈半利間 | |||||||||
幹線鉄道 高規格化事業 | 北越北線 | 六日町・犀潟間 | 20% | 20% | 60% JR東日本 | |||||
新線調査 | 中央新幹線 | 東京都・大阪市間 | 100% | |||||||
四国新幹線 | 本州・淡路島間 | |||||||||
受託事業(工事・調査) | 100% |
鉄道公団の資金調達先を表2-2に基づいて解説すると、次のようになる。
これらのうち、有利子貸付金と鉄道建設債券については、鉄道公団の1998(平成10)年3月調達での金利は表2-4のようになっていて、発行者利回りで見ると、政府引受債と資金運用部資金借入金(いずれも財投資金)の資金調達コストが安いことがわかる。
表2-4. 鉄道公団の調達金利 1998(平成10)年3月調達分
額面金利 | 発行者利回り | |
---|---|---|
資金運用部資金借入金 | 2.1% | |
政府保証債 | 2.0% | 2.152% |
政府引受債 | 2.0% | 2.077% |
特別債 | 2.0% | 2.133% |
民間借入金 | 2.25% |
表2-3に整理されていたように、新たに路線を建設したり、改良工事を行ったりする時には、鉄道公団は、工事の施行管理と同時に、国や自治体の補助金や無利子貸付金、財投資金、そして公団債による市中調達などで資金を集め、工事資金や繋ぎ資金を調達するというファイナンス機能を果たしている。そうしたファイナンス機能の象徴的な事業が、表2-3の中の「民鉄線」工事である。民鉄線工事は、公団工事とはなっていても、大手私鉄の場合は各社が自社で施行管理しており、公団が施行管理をしているわけではない。
民鉄線工事は、1972年(昭和47年)に公団法の中に事業(P線; Private線の意味)として加えられた。もともと鉄道事業の工事に当たっては、鉄道事業者は鉄道事業の免許を得た後(免許が既にある場合は不要)に、鉄道事業法第8条第1項に定める工事の施行の認可申請等をする。そして、運輸大臣の認可後、鉄道事業者が公団工事の申し出(公団法第22条)を行った場合において、鉄道公団が行うことが適当であると認める時は、運輸大臣は、工事実施計画を定めて、これを鉄道公団に指示する。ただし、このことは、鉄道公団が工事の施行管理を行うことを意味していない。鉄道事業者と鉄道公団のどちらが施行管理を行うのかは、両者の間で協議して決めることになっており、実際、1997(平成9)年度では、西武、東武、小田急は、自社で施行管理している。
仮に民鉄側が自社で施行管理する場合であっても、運輸大臣が工事実施計画を定めて、これを鉄道公団に指示した際には、鉄道公団側はこの指示を受けて、工事資金全額を有償調達資金として資金運用部資金借入金(据置期限3年、償還期限25年)と鉄道建設債券で調達する。鉄道建設債券は10年満期一括償還で、政府保証債、政府引受債、特別債の3種類がある。いわゆる「公団債」といわれるのは特別債のことである。3種類の鉄道建設債券の調達割合は表2-5に示されているように、何度か制度が変更になってきている。
表2-5. P線の有償調達資金の調達割合
財投の枠内 | 財投の枠外 | 調達割合の基数 | ||
---|---|---|---|---|
資金運用部 資金借入金 | 政府保証債 政府引受債 | 特別債 (公団債) | ||
1972年度〜1978年度 | 40% | 0% | 60% | 有償調達資金 |
1979年度〜1981年度 | 償還のための借換充当資金を除く有償調達資金 | |||
1982年度〜1983年度 | 40% | 60% | ||
1984年度〜1986年度 | 民間借入金、償還のための借換充当資金を除く有償調達資金 | |||
1987年度 | 60% | 40% | ||
1988年度〜1997年度 | 償還のための借換充当資金を除く有償調達資金 | |||
1998年度〜 | 40% | 60% |
完成後、鉄道公団側は、譲渡を行う「路線・区間」ごとに、建設利息+管理費、をコスト計算し、譲渡価額について運輸大臣の認可を得る(公団法第23条)。民鉄側は、完成後譲渡を受けてから、25年50回分割払いで返済し、公団側は、この譲渡収入を借入金の返済と鉄道建設債券の償還の財源に当てることになる。
その際、民鉄側が返済する際の金利は原則として利率5%を超えないようにする運輸施設整備事業団を経由した利子補給制度(表2-1の「貸付線及譲渡線建設費等利子補給金」)も用意されている。すなわち、5%を超える分については、その超える分の1/2を国が、1/2を地方自治体が譲渡後25年間(ニュータウン線は15年間)利子補給を行う。この利子補給制度は、基本的に有利子資金のみで充当して建設された線区(旧国鉄時代からのCD線(第3章で触れる)及びP線)に係る貸付又は譲渡後の鉄道事業者の負担を軽減することを目的とする助成制度である。
ただし、民鉄線の場合には、このように鉄道公団が調達したP線資金と併せて、民鉄側が調達した資金を併用することも進んでいる(『日本鉄道建設公団三十年史』pp.199-227)。代表的なものとしては、
などが利用されている。表2-3でいえば、西武8号線、西武池袋線、東武伊勢崎線、東武伊勢崎線(2)、東武東上線(2)、小田急小田原線(2)は、1 特定都市鉄道整備事業資金、小田急小田原線(2)、東西線(京都高速鉄道)、みなとみらい21線、埼玉高速鉄道線、臨海副都心線二期は、2 民鉄線特定事業資金を利用している。例えば、1992(平成4)年工事着手のみなとみらい21線は、横浜市が第三セクターである横浜高速鉄道鰍ノ対して交付した開発者負担金等を会社資金の形で受け入れており、鉄道公団の民鉄線工事としては初めてP線資金以外の自社調達資金が導入されたケースである。
こうした民鉄線工事の場合は、公団工事とはなっていても、大手私鉄の路線は各社が自社で施行管理しているので、この場合は、鉄道公団はファイナンス機能しか果たしていないと考えられる。さらに第3章で触れる旧国鉄時代からの有償貸付線事業の存在なども考えると、ある意味では、鉄道公団は、工事の施行管理能力があって貸付線などのリースもやっているノンバンク的な役割を鉄道事業者に対して果たしているといえ、運輸施設整備事業団とともに日本の鉄道建設の資金調達に重要な役割を果たしていることになる。
これまで、運輸施設整備事業団(旧鉄道整備基金) と鉄道公団が形作る資金調達の枠組みについて述べてきたが、いよいよ資金調達の応用問題として、より具体的に地下鉄建設費の資金調達スキームをケース・スタディーとして取り上げることにしよう。ここでは、地下鉄の中でも東京都を走る地下鉄である営団地下鉄と都営地下鉄、正確に言えば、帝都高速度交通営団(以下「営団」と略記)と東京都交通局高速電車事業(以下「都営」と略記)における新線建設費の資金調達スキームについて整理する。
1998年3月末現在で鉄道建設が進行中の主なものは、鉄道公団のところで触れた整備新幹線、民鉄線を含む大都市交通線、そしてこれから取り上げる地下鉄である。営団も都営も鉄道公団を利用していないので、資金調達スキームはより単純な形で示すことができる。また、地下鉄では個々の路線・区間ごとの資金調達スキームがかなりはっきりしている。こうした理由から、後ほど、地下鉄建設は資金調達スキームの重要性を考えさせる格好の材料を提供してくれることになるが、まずは、営団と都営の概要と関係について整理することから始めよう。
東京で初めて地下鉄が開業したのは、1927(昭和2)年12月、東京地下鉄道株式会社の浅草・上野間2.2km (現在の営団銀座線の一部)で、これが日本で最初の地下鉄でもあった。その後、1941(昭和16)年7月4日に帝都高速度交通営団法に基づいて、営団が設立され、同年9月、それまでに開業していた東京地下鉄道株式会社、東京高速鉄道株式会社の営業路線(前者は浅草・新橋間8.0km、後者は新橋・渋谷間6.3km)及び免許線、ならびに京浜地下鉄道株式会社及び東京市の免許線を譲り受けて、営団は営業を開始したのである[5]。設立時の資本金は6,000万円で、うち政府出資4,000万円、東京市と関係電鉄、国鉄共済組合を合わせて2,000万円であった。1998年3月末現在の営団の資本金は581億円、うち政府が約310億円(53.4%)、東京都が約271億円(46.6%)である[6]。
一方、都営は、1911(明治44)年8月1日に、東京市が東京鉄道株式会社を買収して、東京市電気局を創設して路面電車(市電)事業と電気供給事業を開始したのが始まりである。その後、1924(大正13)年の関東大震災で大被害を受けた市電の応急措置として始めた乗合バス(市バス)事業なども加わり、1943(昭和18)年7月1日の都制施行により、東京市電気局から東京都交通局へと名称を変えている。営団が設立された時点では、いったんは営団に免許線を譲渡したものの、営団だけでは地下鉄建設が遅いとして、1954(昭和29)年3月29日に都議会が都営地下鉄建設を決議し、再び地下鉄建設に乗り出した。1958(昭和33)年3月1日に地下鉄1号線の免許・許可を取得し、同年8月31日に着工、1960(昭和35)年12月4日に、初めての都営地下鉄である地下鉄1号線(現在の浅草線)の浅草橋・押上間を開業している。こうした歴史的経緯があるために、1998年3月末現在、東京都交通局は
の五つの事業を経営している。会計上でも、交通事業会計(1, 2, 3)、高速電車事業会計(4)、電気事業会計(5)の三つに分かれているので、ここでは東京都交通局全体ではなく、高速電車事業だけを取り上げて「都営」と呼ぶことにしたのである。
1998年3月末現在で、営団地下鉄の総営業キロ数は171.5km、都営地下鉄の総営業キロ数は77.2kmとなっている。
営団と都営の地下鉄建設費の資金調達スキームは共通点が多い。それは、一つには、運輸施設整備事業団と東京都の地下鉄建設に対する補助金制度の枠組みが共通しているからであり、もう一つには、営団も都営も自力で債券による資金調達が可能になっているからである。
それでは、最初に都営の地下鉄建設費の資金調達スキームについてみてみよう。それは財源という形で表2-6のようにまとめられる。
表2-6. 都営の地下鉄建設費財源(「平4ルール」)
財源 | 計算式* | 構成比率 |
---|---|---|
(1)国庫補助金 | (1)=(総建設費―総係費―車両費―建設利子) × 1.02 × 80% × 35% × 90% 事務費上乗せ 出資率控除 補助率 1割圧縮 |
19.79208% |
(2)一般会計補助金 (東京都) |
(2)=(総建設費―総係費―車両費―建設利子) × 1.02 × 80% × 35% 事務費上乗せ 出資率控除 補助率 |
21.9912% |
(3)一般会計出資金 (東京都) |
(3)=総建設費 × 20% 出資率 |
20% |
(4)公営企業債(地方債) | (4)=総建設費−{(1)+(2)+(3)} | 38.21672% |
計 | 100% |
この地下鉄建設費財源は、特に@とAの網掛け部分に関しては、都営でも営団でも「平4ルール」(「平成4年度ルール」の意味)と呼ばれている補助金制度に基づいたものである[7]。
この「平4ルール」は、後述するように、地下鉄建設にとって、ある意味では画期的な補助金制度であるが、1992(平成4)年度に一斉に出来上がったのではなく、数年をかけて、いくつかの改正点を積み上げて、あたかも一つのルールのようになっていることには注意がいる。まず、(1)の国庫補助金は1990(平成2)年度までは、直接運輸省より営業外収益で受け入れる運営費補助方式だったが、1991(平成3)年の鉄道整備基金の設立に伴い、鉄道整備基金を通して資本的収入で受け入れる資本費補助方式に移行している。これは収益的収入及び支出に当てられる「3条補助金」から資本的収入及び支出に当てられる「4条補助金」への制度変更ということもできる[8]。また補助金の交付の仕方も、1991(平成3)年度においては、まだ各年度の補助率が7%で、5年分割交付(計35%)とされていたが、1992(平成4)年度には一括交付による補助制度に変わった。こうした国庫補助金の制度変更に合わせて、東京都一般会計補助金の制度も改められている。さらに、国庫補助金の費目は、1994(平成6)年度予算から、「その他施設費」から安定的な財源が確保される「公共事業関係費」へと移行している。
営団でも補助金の制度は基本的に同じで、「平4ルール」と呼ばれている。しかし、いくつかの相違点がある。まず営団では、「平4ルール」の資金調達スキームにおいて、表2-6の中の(3)東京都の一般会計からの出資金が存在しない[9]。また建設利子については、都営では建設利子も資金調達スキームの中で考えているが、営団では現在は建設利子を資金調達スキームの中では考慮しておらず、営業収益等で賄うことになっている。したがって、図2-1のように、建設利子を除いた都営の(3)と(4)に該当する部分を、(5)財投借入金と(6)営団が発行する公募交通債券等(銀行借入金を含む場合もある)で調達することになるのである。この部分の7割は財投借入金として調達できることになっており、3割が公募交通債券で市中から調達される。都営の場合も公営企業債の一部は財投で調達されている。建設利子の分を除けば、(1)国庫補助金と(2)東京都補助金で賄われる比率は都営も営団も同じになる。
図2-1. 地下鉄建設費財源の比較(「平4ルール」)*
* 総係費5%、車両費6%、建設利子12%と仮定して試算したものである。
** 営団では地下鉄建設費の財源のうち、(1)東京都の一般会計補助金と(2)国庫補助金を除いた残りの7割を財投借入金で調達できることになっており、3割を公募交通債券で市中から調達している。
都営にとっても営団にとっても、債券の発行は建設資金調達のための重要な手段である。都営の場合、公営企業債(以下「企業債」と略記)は建設改良債(以下「建設債」と略記)と建設債の利子を支払うための特例債とに分けられることになる。特例債は、1970(昭和45)年度から発行されているが、建設債の各年度の支払利子相当額に対してのみ発行されている。
企業債のより細かな分類は表2-7のようになるが、民間債の中の公募債は引受シンジケート団が公募を行っている。企業債のうち、建設債の長期債の利率は図2-2のように推移している。1990年代に入って、低金利時代を反映し、利率はどんどん低下し、1997(平成9)年度末の時期での政府債の利率は2.1%であった[10]。
表2-7. 都営の公営企業債(1997(平成9)年度)
引受先 | 期末現在高(円) | 平均利率 | |||
---|---|---|---|---|---|
建設債 (建設改良債) |
短期債 | 政府債 | 簡易保険局 | 5,267,000,000 | 2.0% |
資金運用部 | 8,827,000,000 | 2.0% | |||
短期債全体 | 14,094,000,000 | 2.0% | |||
長期債 | 政府債 | 簡易保険局 | 85,946,518,376 | 4.9% | |
資金運用部 | 156,477,266,341 | 5.7% | |||
公営企業金融公庫 | 12,821,330,420 | 6.0% | |||
民間債 | 公募(市場公募債) | 57,366,700,000 | 4.0% | ||
共済組合 | 21,189,000,000 | 3.6% | |||
銀行(縁故債) | 61,433,500,000 | 3.8% | |||
外債(外貨債) | 160,290,713,019 | 4.6% | |||
長期債全体 | 555,525,028,156 | 4.8% | |||
建設改良債全体 | 569,619,028,156 | 4.7% | |||
特例債 | 長期債 | 公募(市場公募債) | 3,388,400,000 | 4.8% | |
銀行(縁故債) | 63,459,500,000 | 4.7% | |||
公営企業金融公庫 | 25,252,266,901 | 4.3% | |||
特例債全体 | 92,100,166,901 | 4.6% | |||
企業債全体 | 661,719,195,057 | 4.7% |
図2-2. 都営の建設改良債(長期債)の表面利率の推移
都営が企業債を政府債と民間債に分類しているように、営団の場合、交通債券は資金運用部と簡易保険局が引き受ける「政府引受債券」と引受シンジケート団が公募を行っている「公募交通債券」とに分類されている。しかし、建設時の新規の政府引受債券は、運用部資金については1981(昭和56)年度以降、簡保資金については1990(平成2)年度以降発行されておらず、借換分のみが発行を認められている。したがって営団の場合、設備投資資金に係わる財投資金は、1990(平成2)年度以降はすべて借入金の形で受け入れていることになる。
このように共通点の多い都営の建設債と営団の交通債券ではあるが、償還期限については違いがある。都営の政府債の償還期限は一貫して30年であるのに対して、営団の政府引受債券は、1988(昭和63)年度までは12年、1989(平成元)年度以降は10年である。もっとも、営団の政府引受債券は、基本的に償還期限10年でも、借り換えが2回可能であったため、計30年まで借りていられることになっていたと言われ[11]、その意味では実質的に同じといえるのかもしれない。しかし、1990年代後半からの財投批判の中で、営団の政府引受債券による調達が難しくなり、1998(平成10)年度以降は、借り換えすらも認められなくなっている。現在のような低金利時代にあっては、この償還期限の違いは、営団に対しては不利に働くかもしれない。しかし、高金利時代に、都営のように30年といった長期の政府引受債で資金を調達すると、繰上げ償還もできずに高金利に苦しむことになる。その意味では、営団の政府引受債券のように基本的に償還期限10年で、借り換えが2回可能といったシステムの方が、資金調達リスクの回避には有効かもしれない。
つまり金利の状況に合わせて償還期限の設定を考えるべきなのである。高金利の時には長期借入金といってもできるだけ短期で調達すべきであるし、低金利の時には、できるだけ長期で資金調達をすべきなのである。政府引受債ではなかなかそう機動的に発行ができないのであれば、民間債あるいは公募債でその道を探るべきだろう。実際、営団の交通債券の利率は図2-3のようになるが、都営の建設債の利率を示す図2-2と比較すると、利率の動向はほぼ重なっているものの、1995(平成7)年度以降、営団が公募債券で償還期限20年のものの発行を始めたために、20年ものの公募債券は10年ものの政府引受債券と比べて、金利が0.6%程度高くなっている。これは、低金利の間に多少金利が高くなっても、出来るだけ長期の債券を発行しておこうという営団側の意図で行われており、電力各社などが同様のことを始めたという市場動向を踏まえてのことであった。これに対して、都営は一貫して民間債の償還期限は10年であり、この点については資金調達に対する都営と営団の姿勢の違いが見られる。
図2-3. 営団の交通債券の表面利率の推移
ところで、都営の建設改良債の発行には当分の間、自治省の許可が必要ということになっている。1993(平成5)年度〜1997(平成9)年度の5年間の平均では、建設改良債の起債許可額の割合は政府債34%、民間債66%となっていた。それに対して、同時期の営団の交通債券の発行総額の割合は、政府引受債券26%、公募債券74%であったが、この時期発行された政府引受債券はすべて借り換え分なので、地下鉄建設資金の調達財源とは異なることには注意がいる。実際には、既に述べたように、営団の場合、図2-1の地下鉄建設費の財源のうち、1.国庫補助金と2.東京都の一般会計補助金を除いた残りを公募交通債券と財投借入金で賄っているわけだが、7割を財投借入金で調達できることになっており、残りの3割を公募交通債券で民間から調達している。
地下鉄建設費補助制度はこれまでに何度も制度変更が行われてきているが、都営を例に取れば、地下鉄の建設費に対する実質補助率は1978(昭和53)年度〜1982(昭和57)年度の59.85%(国庫実質補助率は29.93%)をピークにして下がり続け、1991(平成3)年度以降は41.78%(国庫実質補助率は19.79%)となっている。これは図2-4で明らかなように、1978(昭和53)年度以降、名目補助率こそ70%で一定のままだが、表2-6の注で挙げたような費目を追加的に補助金の対象建設費から控除するような制度変更が行われてきたためである。1991(平成3)年度以降は、実質補助率は41.78%(国庫実質補助率は19.79%)にまで低下してしまった。そのため、「平4ルール」では38.21672%を企業債によって賄うことになっている。
図2-4. 都営の地下鉄建設費補助率
しかしこれは表面上のことであり、実際には「平4ルール」の採用で1991(平成3)年度からは資本費補助となることで、建設費に直接補助金が投入できるようになり、さらに1992(平成4)年度からは、その補助金が一括交付されるようになったことで、これから見るように、発行する起債額が格段と減少し、これまで地下鉄事業の収支を圧迫してきた支払利息の軽減が図られることとなった。これなどは、実質補助率の高低だけではなく、資金調達の仕方自体が実は重要な要因であることを如実に示した例だといえるだろう。
「平4ルール」ができる前までは(直前は「53ルール」つまり昭和53年度ルール)、実質補助率は表面的には高率に見えていたが、地下鉄建設時に補助するのではなく、10年間の分割で建設の次の年から少しずつ補助金が交付されるというものだった[12]。その間にも、建設時にまとめて発行されていた企業債からは、莫大な利子が発生し続けることになる。
そのことを都営を例にして、試算して確認しておこう。いま仮に地下鉄建設費が1,000億円であったと仮定しよう。そこで、
といった算定条件で、補助金の分割交付状況を試算してみることにしよう。この条件のうち2と3が「53ルール」であり、こうして求めた各年度の補助金合計額は国庫と東京都一般会計が1/2ずつ負担することになる。
試算結果は表2-8と図2-5で示される。これでわかるように、「53ルール」では、1,000億円の総建設費に対して、建設開始2年目から15年目までに補助金が分割交付され、一番多い6年目でも72億円程度しか支払われない。つまり総建設費1,000億円に対して、ピーク時でも7.2%しか補助金が交付されないのである。これは事実上の利子補給にすぎないといっていいだろう。
表2-8. 「53ルール」での補助金分割交付状況 (単位: 億円)
年度 | A建設費 | B補助対象額 (Aの85.5%*) | C補助金合計 (Bの70%**) | 交付年度*** | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1年目 | 2年目 | 3年目 | 4年目 | 5年目 | 6年目 | 7年目 | 8年目 | 9年目 | 10年目 | 11年目 | 12年目 | 13年目 | 14年目 | 15年目 | 計 | ||||
1年目 | 200 | 0.0 | |||||||||||||||||
2年目 | 200 | 171 | 119.7 | 20.52 | 17.10 | 13.68 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 6.84 | 119.7 | |||||
3年目 | 200 | 171 | 119.7 | 20.52 | 17.10 | 13.68 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 6.84 | 119.7 | |||||
4年目 | 200 | 171 | 119.7 | 20.52 | 17.10 | 13.68 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 6.84 | 119.7 | |||||
5年目 | 200 | 171 | 119.7 | 20.52 | 17.10 | 13.68 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 6.84 | 119.7 | |||||
6年目 | 171 | 119.7 | 20.52 | 17.10 | 13.68 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 10.26 | 6.84 | 119.7 | ||||||
計 | 1,000 | 855 | 598.5 | 0 | 20.52 | 37.62 | 51.30 | 61.56 | 71.82 | 61.56 | 54.72 | 51.30 | 51.30 | 47.88 | 37.62 | 27.36 | 17.10 | 6.84 | 598.5 |
図2-5. 「53ルール」での補助金分割交付状況
事実、「53ルール」のもとでは、都営が地下鉄建設している時点では、東京都の一般会計補助金も、国庫補助金も交付されておらず、総建設費の10%に相当する東京都の一般会計出資金以外の部分、実に総建設費の90%を企業債によって調達して、有利子資金で資金を繋いでいくしかなかった。つまり、現実にも企業債の利子が補助金の額程度は発生し続けていたのである。
営団よりも後発の都営の場合、新線の建設を活発を行いながら、「53ルール」のような制度の下で、その建設費用のかなりの部分を有償の企業債に頼ってきたために、膨大な支払利息と減価償却費が発生し、地下鉄事業の収益構造を苦しいものにしている。1997(平成9)年度の高速電車事業損益計算書によれば、営業外費用の「支払利息及企業債取扱諸費」は281億円、「減価償却費」は278億円にのぼり、両者を合わせると、減価償却費を除いた営業費用544億円をしのぐ膨大な額になる。
もともと地下鉄建設費の補助制度は、1962(昭和37)年度の発足時には、利子補給制度としてスタートしており、その後補助金が増額され、補助率が上昇した以降も「53ルール」までは、大蔵省は地下鉄補助を建設費補助として位置づけていなかったといわれる(伊東, 1996, pp.162-164)。ただし表面的に計算してみると、「53ルール」では、都営でも営団でも名目補助率は70%であり、特に都営の場合には、実質ベースで見ても、実質補助率に東京都からの出資金10%を加えると69.85%もあったのである。これだけの補助率でありながら、結局は利子補給にしかならなかったということは、補助率の高低の問題というよりも、「運営費補助方式」という方式自体に本質的な問題点があったと考えるべきであろう。
それに対して「平4ルール」では、実質補助率は41.78%で、東京都からの出資金が20%に増えたにもかかわらず、それを加えても61.78%にしかならない。ところが、利子負担までを総計すると都営の実質負担は「平4ルール」の方がはるかに軽減されているのである。つまり、「平4ルール」と比べて、「53ルール」の方が多額の出資金・補助金を投入しておきながら、資金投入の仕方が適切でなかったばかりに、都営の実質負担をかえって増やしてしまっていたことになるのである。まさに資金調達スキームの重要性を痛感させる。
そのことを東京都交通局の試算をもとにして確認しておこう。先ほどと同様に、仮に地下鉄建設費が1,000億円であったと仮定しよう。表2-9で示されるように、「53ルール」では900億円、「平4ルール」では382億円の企業債を発行する必要がある。
表2-9. 総建設費1,000億円の地下鉄建設費の財源(都営のケース)
建設時の資金調達額(億円) | ||
---|---|---|
「53ルール」 | 「平4ルール」* | |
(1)国庫補助金 | − | 198 |
(2)一般会計補助金(東京都) | − | 220 |
(3)一般会計出資金(東京都) | 100 | 200 |
(4)企業債(地方債) | 900 | 382 |
計 | 1,000 | 1,000 |
そこで、
といった算定条件で、企業債発行後30年間(建設期間を含めると34年間)の元利の償還金額総額を求め、「53ルール」の場合はそれから補助金の合計額(表2-8から、これは599億円になることがわかる)を引いたものを「実質負担総額」と呼び、それを求めることにしよう。
「平4ルール」では、補助金は最初の段階で交付されてしまっているので、企業債の発行額の圧縮に貢献しているだけで、企業債の償還時には補助金は姿を現わさない。それに対して「53ルール」では、補助金はいわゆる「3条補助金」と呼ばれ、損益計算書の営業外収益に「国庫補助金」「一般会計補助金」として計上される。営業外費用には「支払利息及企業債取扱諸費」が計上されるので、形式的にも、営業外収支のところで補助金が利子補給に当てられている構図が見えていることになる。こうして「53ルール」では「3条補助金」の形で補助が行われるものの、最初の建設段階での企業債の発行額が900億円と膨大になってしまうのである。
企業債の利率を2%〜6%まで1%刻みで変えながら、東京都交通局が試算したところによると、表2-10と図2-6のようになる。直感的にも、企業債の利率が高ければ高いほど「53ルール」では利子の負担がより重くのしかかってくることがわかるが、実際には企業債の利率が2%という低金利でも、「平4ルール」の方が、出資金・補助金の合計投入額が少ないにもかかわらず、都営の実質的な負担を軽減することになるのである。総建設費1000億円に対して、利率6%ではその差額は563億円にもなる。別の見方をすれば、利率6%のとき、総建設費1,000億円に対して、利子まで入れた都営・国庫・東京都一般会計の支出合計額は、「平4ルール」ならば1,475億円で済むのに、「53ルール」では実に2,119億円にまで膨らむのである。
表2-10. 総建設費1,000億円の場合の企業債償還終了時までの実質負担総額の比較 (単位:億円)
利率 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
2% | 3% | 4% | 5% | 6% | ||
53ルール | 企業債発行額 | 900 | 900 | 900 | 900 | 900 |
利子 | 338 | 521 | 712 | 912 | 1,119 | |
3条補助金(利子補助) | -599 | -599 | -599 | -599 | -599 | |
実質負担総額 | 639 | 822 | 1,013 | 1,213 | 1,420 | |
平4ルール | 企業債発行額 | 382 | 382 | 382 | 382 | 382 |
利子 | 144 | 221 | 302 | 387 | 475 | |
3条補助金(利子補助) | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
実質負担総額 | 526 | 603 | 684 | 769 | 857 |
図2-6. 総建設費1,000億円の場合の企業債償還終了時までの実質負担総額の比較
この章を締めくくるに当たって、有利子資金を軸に、鉄道事業者の資金調達スキームのあり方を簡単に整理しておこう。繰り返しになるが、ここでの主張は単純でかつ当たり前のことである。結論的にいえば、巨額の有利子資金を利用して行われる鉄道建設と鉄道経営は、金利との競争である。補助金を資本費補助として建設時に集中投入し、有利子負債額と工事期間の両方をできるだけ圧縮しなければ、鉄道事業の収益構造自体が悪化してしまう。にもかかわらず、これまでは国が補助金を広範かつ長期にわたって薄くばらまくという逆のことをしてきたように見える。利子補給的な運営費補助金で多くの新線建設が着工されてきた。それどころか、資金調達スキーム自体が有名無実もしくは無視されたに等しいケースもあったのである。
例えば、営団の南北線は、補助金を利用した区間「赤羽岩淵・駒込間」と運輸施設整備事業団(旧鉄道整備基金)の無利子貸付金制度を利用した区間「駒込・目黒間」とからなっているが、概ね、表2-11のような財源の割合になっていた。この表からもわかるように、南北線の建設費の財源は、目まぐるしく変わっている。特に「駒込・目黒間」は、大きな変更だけを見ても、最初は「53ルール」の補助金を利用していたが、1991〜1998(平成3〜10)年度は無利子貸付金制度を利用し、1999(平成11)年度には今度は「平4ルール」の補助金制度を利用する形に戻っている。
表2-11. 営団南北線の建設費財源(計画時)*
区間 | 赤羽岩淵・駒込間 | 駒込・目黒間 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
開業時期 | 1991(平成3)年11月29日 | 駒込・四ッ谷間 1996(平成8)年3月26日 四ッ谷・溜池山王間 1997(平成9)年9月30日 溜池山王・目黒間 2000(平成12)年秋予定 | ||||||||
年度 | 1985〜1986 | 1987〜1991 | 1992〜1997 | 1998〜 | 1985〜1986 | 1987〜1990 | 1991 | 1992〜1998 | 1999〜 | |
昭和60〜61 | 昭和62〜平成3 | 平成4〜9 | 平成10〜 | 昭和60〜61 | 昭和62〜平成2 | 平成3 | 平成4〜10 | 平成11〜 | ||
財 源 |
国庫補助金** | 25.34% | 21.41%*** | 25.05% | 21.80% | |||||
一般会計補助金(東京都)** | 25.34% | 23.79%*** | 25.05% | 24.22% | ||||||
無利子貸付金(事業団) | 34.60% | |||||||||
無利子貸付金(東京都) | 34.60% | |||||||||
財政投融資借入金 | 24.66% | 29.59% | 34.53% | 38.36% | 24.95% | 29.94% | 18.48% | 21.56% | 37.79% | |
公募交通債券 | 24.66% | 19.73% | 14.80% | 16.44% | 24.95% | 19.96% | 12.32% | 9.24% | 16.19% |
しかも驚くのは、営団の場合、「平4ルール」が適用になるのは、1998(平成10)年度からで、1991(平成3)年度から南北線「駒込・目黒間」で無利子貸付金制度が利用されるようになったことを理由に、無利子貸付金制度を利用していない南北線の他の区間や11号線についてまでも「平4ルール」は適用にならなかったのである。1998(平成10)年度から営団に対する「平4ルール」の適用が始まるが、その年度は1985(昭和60)年度着工の南北線「赤羽岩淵・駒込間」の既開業線残工事(道路の本復旧工事)と1993(平成5)年度着工の11号線について適用が始められている。南北線「駒込・目黒間」については翌1999(平成11)年度から「平4ルール」の適用が始まる。
それまでの「53ルール」の下では、補助金は建設もしくは開業の翌年度から支払われるということで、実質的には建設時には、財投資金と民間資金(公募交通債券・銀行借入金)だけで資金調達をするしかなく、補助金は後から来るものだったのであるが、実際には、スキームと呼ぶのもはばかれるような、はるかに不安定かつ不確実な財源であった。実は、1991(平成3)年度から南北線の「駒込・目黒間」で無利子貸付金の制度を利用するようになると、それを決めた際の「無利子貸付を行っている間は、補助金の交付を保留する」という大蔵省主計局長と運輸省地域交通局長の覚書に基づき、他区間の国庫補助金・東京都一般会計補助金までもが凍結されてしまったのである。つまり、建設開始当初に財源として予定されていたはずの補助金は後からも来なくなってしまい、この状態は「平4ルール」が適用になる1998(平成10)年度まで続いたのであった。したがって、表2-11の財源としての補助金は、結局、なかったことになる。
つまり、「53ルール」の下では補助金はせいぜいが利子補給程度であるにもかからわず、それとても確実な財源ではなく、本当の意味での「資金調達スキーム」が立てられ、守られる状態ではなかったのである。当時の営団の実態は、政府が決めた財政投融資資金を基本にして地下鉄建設費を調達し、不足分を公募交通債券や銀行借入金で民間から調達するという構図しかなかったことになる。実際、「平4ルール」や無利子貸付金制度が登場する以前の「53ルール」の時代までは、「資金調達スキーム」という言葉自体が使われていなかったともいわれている。
さらに、たとえば、表2-11の「駒込−目黒間」の財源の割合を見ると、運輸施設整備事業団(旧鉄道整備基金)の無利子貸付金制度を利用すると無利子で建設費の70%近くが調達できるので、有利であるかのような錯覚を覚えるが、現実はそれほど甘くはない。無利子とはいえ、貸付金は返済しなければならないわけで、5年据置後、10年で償還することになっている。結局、この無利子貸付金は財投への借換ができないことになったので、今後は財投よりも高金利の民間資金(公募交通債券・銀行借入金)で借り換えせざるをえなくなった。いずれにせよ、金利の高低の違いはあっても、こうして建設費の全額が有利子負債に化けることになる。結局、政府が無利子貸付金により地下鉄建設を誘導・促進したことで、営団の有利子負債への依存度を高めてしまうことになるのである。
確かに、鉄道公団、営団、都営などの建設工事主体が債券による資金調達能力を持っていることは便利である。しかし、地下鉄建設において、繋ぎ資金の存在をあてにした運営費補助方式の補助金では、70%にまで補助率を上げても、結局は利子補給にしかならなかったという事実は重く受け止めなければならない。こうした補助金を広範かつ長期にわたって薄くばらまくという発想の下に組み立てられた資金調達スキームが、結果的に、どれだけの利子負担を鉄道事業者に強いてきたかを思い起こす必要がある。補助金が薄くばらまかれることで、建設工事のペースは遅くなるか、あるいは建設を急げば多額の資金を有利子負債として自己調達せざるを得なくなる。いずれの場合も、財投を含めた有利子資金を利用している場合には、より多額の利子の発生に直結する。鉄道建設費の不足分やつなぎ資金を鉄道事業者自身に有利子資金として自己調達させるということを安易に続けさせていると、開業までの工事期間の間に利子でさらに有利子負債の額が膨らみ、鉄道事業そのものの収益構造の悪化を開業前に決定的なものにしてしまう。そのことが結局は長期的に見て、そのまま国民の負担になるのである。
このことは既に抱えてしまった負債の処理にもあてはまる。負債をできるだけ短期間に返済するという発想をもたずに、つじつま合わせをしていると、結局は、国民の負担が大きくなってしまう。例えば、都営の特例債の元利償還金(=元金+利息)に対しては、国庫あるいは東京都の一般会計からの補助金が交付されているが、表2-12で示されているように、その補助金の制度は過去に何度か変更されてきているものの、特例債の元金部分については一貫して、全額が東京都の一般会計から補助金が交付されてきたのである。特例債の利子部分については、1993(平成5)年度以降は、年利率4%相当額を国庫と東京都の一般会計が1/2ずつ補助することになっている。つまり、建設債の利子部分は、いずれは国庫か東京都の一般会計で支払うことになるのに、その支払いを先延ばしにし、その間を特例債という有利子資金でつなぐことで、結局は支払利息が余計にかさむ結果となっているのである。
表2-12. 高速電車事業(都営)の特例債制度の推移
年度 | 発行された特例債 | 補助対象 | 補助内容 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
特例債発行対象 | 種類 | 特例債元金 | 特例債利子 | ||||
東京都一般会計 | 国庫 | ||||||
1970〜1972年度 | 1968年度以前発行 の建設債の利子 |
政府債 | 旧特例債 | 旧特例債 | 全額 | − | 全額 |
民間債 | − | − | − | 全額* | − | ||
1973〜1982年度 | 1971年度以前に発行 した建設債の利子 | 既特例債 | 旧特例債 既特例債 | 全額 | − | 全額 | |
1983〜1985年度 | 1972〜1976年度に発行 した建設債の利子 | 新特例債 | 既特例債 | 全額 | − | 1/3 | |
新特例債 | − | 年利率4% 相当分 | |||||
1986〜1992年度 | 既特例債 | 全額 | 1/3 | − | |||
新特例債 | 年利率2% 相当分 | 年利率2% 相当分 | |||||
1993〜2002年度 | 1977〜1982年度に発行 した建設債の利子 | 新新特例債 | 新特例債 | 全額 | |||
新新特例債 |
こうした資金調達スキームの考察をもとにすれば、ファイナンス機能が組み込まれている鉄道の建設主体が、鉄道事業の営業主体と全く分離してしまって建設に当たっている場合の問題点も明らかになる。仮に、建設工事が遅れて余計に費用や利息がかかっても、建設主体側が、その分は債券を発行して資金をつないで、その追加額をそのままプラスして、鉄道事業者に譲渡するような構造になっていれば(したがって、建設主体側に赤字が出ることはない)、工事の施行管理に当たる建設主体側には、工事期間をできるだけ短縮し、有利子資金の額を減らそうというインセンティブがなく、危険なのである。こうした場合、例えば鉄道公団での一部の民鉄線工事のように、鉄道事業者自らが施行管理を行うことは危険回避に効果的である。実際、第3章で触れるように、秋田新幹線の場合には、公団工事ではあったが、JR東日本自身が施行管理に当たり、10%以上のコスト削減効果をあげている。
さらに、整備新幹線で行われている鉄道事業者の収支の範囲内で貸付料を決める貸付方式は、鉄道公団側にもリスク・シェアリングをさせているという点で注目される。整備新幹線の貸付料の計算方式は、当該新幹線を整備した場合の収益と当該新幹線を整備しない場合の収益との差(定額)に租税と管理費の合計を加えるというもので、この方式であれば、鉄道事業者は、支払利息や減価償却費といった資本関係費用の重圧とリスクから解放されて、営業に専念することができる。既に北陸新幹線の高崎・長野間の貸付料が毎年度175億円と定額で定められている。この計算方式であれば、建設工事が遅れて利子がかさんで有利子資金が膨らんでしまった時のリスクを鉄道公団側が背負うことになるので、当然、有利子資金額と工事期間の両方を圧縮しなければならないというプレッシャーになるはずである。金利との競争を続ける一方で、こうした金利リスク自体を抑える制度、方策も模索されるべきなのである。
鉄道建設も鉄道経営も、金利との競争であるということを忘れてはならない。鉄道建設に当たっては、補助金を資本費補助として建設時に集中投入し、有利子資金額と工事期間の両方をできるだけ圧縮して、鉄道事業の収益構造自体の悪化を回避しなければならない。支払利息で営業利益が吹き飛ぶような状況下に置かれていては、いくら営業努力を積み重ねても報われず、いつしか営業努力自体も忘れ去られることになるのだから。
[5]ここでいう免許線とは建設予定線のことである。
[6]この間の経緯、あるいは出資持分の意味、政府と東京都が出資者になった事情等については、石堂(1997)を参照のこと。
[7]1999(平成11)年度に、都営において、「平4ルール」に準じた補助制度が適用されている路線は、次の通り。 (a) 12号線放射部 (b) 新宿線 (c) 12号線環状部先行買い取り(1999年3月に木場車庫を先行買い取り) それ以前に建設が開始された三田線は、1990(平成2)年度に適用された10年分割の補助制度が適用されている。すなわち、各年度の補助率は、初年度1%、それ以降を2%, 3%, 4%, 4%, 5%, 5%, 4%, 4%, 3% (計35%)の10年分割交付である。12号線の呼称はその後「大江戸線」に決まった。
[8]地方公営企業法施行規則の第12条には、予算等の様式が定められているが、その一に掲げられている別表第5号に示されている予算様式の中で「第3条 収益的収入及び支出の予定額」「第4条 資本的収入及び支出」として項目が挙げられていることから、それぞれ「3条補助金」「4条補助金」と呼ばれることがある。
[9]営団では、「平4ルール」の地下鉄建設の資金調達スキームにおいては出資金が含まれていないが、1951(昭和26)年度〜1986(昭和61)年度まで、東京都と国鉄からの増資(出資)は1953(昭和28)年度を除いて毎年行われていたことには注意がいる。それ以降の増資は行われていない。ただし、これには、帝都高速度交通営団法(以下「営団法」と略記) 第20条で資本金の10倍の額までは交通債券発行による資金調達を可能としていたために、資本金の増大が求められていたという側面もある。この辺の事情を石堂(1997)にしたがって整理しておこう。戦後、建設資金調達手段としての交通債券の消化には限界があったために、当時、立法化が進められていた資金運用部資金法による財政投融資が建設資金の有力な財源と考えられ、その際の融資適格要件として、営団の公法人としての性格の明確化、すなわち、予算、事業計画等への政府の監督の受け入れと民間出資の排除が求められ、その趣旨に沿った営団法の改正と国鉄及び東京都以外の出資の消却が行われて、1951(昭和26)年度に資金運用部資金8億円の融資が実現した。ちなみに1951(昭和26)年1月に起債された戦後初の交通債券の発行額が、1億円にとどまっていたことから、財投の存在の大きさがわかる。その結果、1951(昭和26)年4月1日時点での出資金(累計払込資本)は、国鉄1,300万円、東京都325万円、民鉄等325万円であったが、1951(昭和26)年に民鉄等の出資金が消却され、それ以降、国鉄と東京都による増資が続くのである。さらに、1950(昭和25)年制定の「首都建設法」にもとづく諮問機関「首都建設委員会」が1952(昭和27)年に提出した「(営団が)都民の交通機関たる性格にかんがみ、増資にあたっては東京都をして相当多額の出資をなさしむべきである」という意見を背景にして、国鉄と東京都の増資額は同額とされ、その結果、両者の累計出資額は徐々に接近していく。特に1959(昭和34)年度〜1965(昭和40)年度の間は、両者共に5億円ずつ計10億円、1966(昭和41)年度〜1986(昭和61)年度の間は、両者共に10億円ずつ計20億円を毎年度増資していた。1987(昭和62)年4月1日、国鉄分割民営化に伴う営団法の一部改正により、営団の出資者のうち国鉄が「政府」に改められた。ただし、暫定措置として、日本国有鉄道清算事業団がこれを同日付けで継承し、1991(平成3)年3月29日をもって、営団に対する出資分は、全額政府に譲渡された。1987(昭和62)年度以降、少なくとも1998(平成10)年度末までは増資は行われていない。
[10]最近では、さらに1.1%にまで低下していた時期(1998(平成10)年10月16日〜12月15日の間)もあった。
[11]ここでいう債券の借り換えとは、例えば「償還期限10年、うち据置期間3年の債券」を借り換える場合には、3年据え置いた後、7年間にわたって毎年8%ずつ計56%を償還してしまうので、残り44%をさらに次の債券で借り換えることを意味している。したがって、「償還期限10年の債券を2回借り換える」ということは、最初の発行額のまま30年間借りていることではなく、最初の借り換え時には当初発行額の44%、2回目の借り換え時にはさらにその44%と、借り換えの度に債券の発行額がほぼ半減していくことになる。
[12]「53ルール」での補助金の交付開始は1985(昭和60)年度までは「建設の翌年度から」、1986(昭和61)年度以降は「開業の翌年度から」だった。1990(平成2)年度からは「建設の当年度から」に変更になって、同時に既建設の国庫分についても「建設の翌年度から」方式に復帰した。
巨額な有利子資金を調達して行われる鉄道建設も、巨額な有利子負債を抱えながら進められる鉄道経営も、基本的には金利との競争であるということを忘れてはならない。1987(昭和62)年4月に実施された国鉄の分割民営化によって、長期資金の調達方法も当然変化した。実は、国鉄が分割民営化された前後は、財投金利や社債発行の面でも制度変更があり、そのことがJRの長期資金調達の仕方に影響を与えている。そこでこの章では、分割民営化後の東日本旅客鉄道株式会社(以下「JR東日本」と略記)を中心に取り上げて、JR東日本がいかにして金利と競争し、負債額と平均金利の圧縮に成功してきたのかを概観した上で、JR東日本がこうした金利との競争を展開してきた結果、政府や日本鉄道建設公団(以下「鉄道公団」と略記)との間で金利感覚に大きな温度差が生じつつあることを指摘する。そのことは同時に、現在の資金調達スキームが抱える問題点をも指摘することになる。
国鉄時代と比較した場合、JR東日本の資金調達スキーム上の大きな変化は、何といっても、分割民営化によって、制度的に財投を利用できなくなったということであろう。ただし、JR東日本発足後5年間の1991(平成3)年度までは、「旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律」に基づく国の予算措置を得て、政府保証鉄道債券を新規発行していた。しかし、それ以降の鉄道債券の新規発行はない。そして鉄道債券と入れ替えに、1992(平成4)年度から格付けを取得して発行を始めた社債(国内普通社債、外債)が長期資金調達の中心になるのである。
こうした変化は、表3-1、図3-1、図3-2にも見ることができる。当時、JR東日本にとっては、旧国鉄債務をいかに減らすかが大問題であった。民営化の時点で、一般会計と財政投融資の債務は国鉄清算事業団に承継され、JR各社は民間借入金と鉄道債券(政府保証債、政府引受債、縁故債)の債務を分担して承継していた。1991(平成3)年度に新幹線債務が加えられたことで、新幹線債務以外の長期債務の減少スピードは鈍るが、そんな中でも、JR東日本は、旧国鉄債務を減らすことに努めた。
表3-1. 国鉄とJR東日本の長期借入金及び債券の期末残高 (金額単位: 億円)
年度 | 日本国有鉄道(国鉄) | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1975 | 1980 | 1981 | 1982 | 1983 | 1984 | 1985 | 1986 | ||
昭和50 | 昭和55 | 昭和56 | 昭和57 | 昭和58 | 昭和59 | 昭和60 | 昭和61 | ||
長期借入金 (一般勘定) |
一般会計 | 350 | 1,048 | 1,011 | 1,011 | 1,011 | 803 | 778 | 768 |
資金運用部 | 40,384 | 28,888 | 35,833 | 44,178 | 53,707 | 60,969 | 67,922 | 71,966 | |
簡易保険局 | 3,229 | 6,388 | 7,069 | 7,618 | 7,429 | 7,358 | 6,925 | 6,621 | |
国際復興開発銀行 | 106 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
日本開発銀行 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
民間借入金(JR債務) | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
民間借入金(国鉄債務) | 0 | 1,365 | 2,847 | 3,782 | 4,535 | 5,490 | 5,851 | 6,646 | |
地方自治体 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
鉄道債券 | 政府保証債(JR債務) | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
政府保証債(国鉄債務) | 5,110 | 13,788 | 16,293 | 19,286 | 23,075 | 28,060 | 33,171 | 3,8102 | |
政府引受債 | 419 | 82 | 75 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1,959 | |
縁故債 | 18,195 | 39,204 | 45,166 | 51,360 | 56,854 | 62,368 | 67,762 | 71,389 | |
社債 | 国内債 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
外債 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
計* | 67,793 | 90,770 | 108,294 | 127,235 | 146,611 | 165,048 | 182,409 | 197,451 | |
新幹線債務(運輸施設整備事業団) | |||||||||
秋田新幹線(鉄道公団) | |||||||||
長期債務額総計* | |||||||||
表面利率(無利子貸付金を含む) | 7.13%** |
年度 | 東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本) | ||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987 | 1988 | 1989 | 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | ||
昭和62 | 昭和63 | 平成1 | 平成2 | 平成3 | 平成4 | 平成5 | 平成6 | 平成7 | 平成8 | 平成9 | 平成10 | ||
長期借入金 (一般勘定) |
一般会計 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
資金運用部 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
簡易保険局 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
国際復興開発銀行 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
日本開発銀行 | 420 | 861 | 1,371 | 1,708 | 2,132 | 2,471 | 3,041 | 3,433 | 3,755 | 4,003 | 4,112 | 3,992 | |
民間借入金(JR債務) | 0 | 2,978 | 7,078 | 7,078 | 7,078 | 7,468 | 8,498 | 8,863 | 9,413 | 10,453 | 10,297 | 10,037 | |
民間借入金(国鉄債務) | 3,709 | 3,220 | 2,709 | 1,950 | 1,426 | 963 | 585 | 293 | 101 | 0 | 0 | 0 | |
地方自治体 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 13 | 54 | 130 | 223 | 325 | 335 | 387 | |
鉄道債券 | 政府保証債(JR債務) | 528 | 1,013 | 1,494 | 1,965 | 2,435 | 2,435 | 2,435 | 2,435 | 2,135 | 470 | 470 | 470 |
政府保証債(国鉄債務) | 8,332 | 7,361 | 6,394 | 5,446 | 4,072 | 2,062 | 335 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
政府引受債 | 529 | 1,015 | 1,498 | 1,971 | 2,122 | 2,122 | 2,122 | 2,122 | 1,972 | 623 | 0 | 0 | |
縁故債 | 16,785 | 10,276 | 4,818 | 4,230 | 3,823 | 3,386 | 3,020 | 1,670 | 333 | 0 | 0 | 0 | |
社債 | 国内債 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1,000 | 1,000 | 1,700 | 2,700 | 3,700 | 5,100 | 5,800 |
外債 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 200 | 200 | 200 | 0 | 879 | 879 | 879 | |
計* | 30,305 | 26,726 | 25,363 | 24,351 | 23,090 | 22,122 | 21,292 | 20,848 | 20,633 | 20,454 | 21,194 | 21,566 | |
新幹線債務(運輸施設整備事業団) | 0 | 0 | 0 | 0 | 30,691 | 30,217 | 29,698 | 29,121 | 28,513 | 27,846 | 26,869 | 25,852 | |
秋田新幹線(鉄道公団) | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 279 | 268 | 257 | |
長期債務額総計* | 30,305 | 26,726 | 25,363 | 24,351 | 53,782 | 52,340 | 50,990 | 49,969 | 49,147 | 48,580 | 48,332 | 47,676 | |
表面利率(無利子貸付金を含む) | 6.91% | 6.47% | 6.22% | 6.20% | 6.35% | 6.13% | 5.90% | 5.64% | 5.50% | 5.10% | 4.84% | 4.62% |
図3-1. 国鉄の長期借入金及び債券の期末残高
図3-2. JR東日本の長期借入金及び債券の期末残高(新幹線の債務を除く)
その結果、発足年度である1987(昭和62)年度末、長期債務の実に84.6%(=2兆5,645億円/3兆305億円)を占めていた鉄道債券は、毎年度、償還・臨時償還を進めたことで、国鉄時代の鉄道債券そして民間借入金の承継債務をともに、1996(平成8)年度末までに返済し終わる。それ以降に残っている鉄道債券の残高は、民営化後の新規債務であるが、それとても、1998(平成10)年度末には、途中付加の新幹線債務を除いた長期債務の2.2%(=470億円/2兆1,566億円)にまで激減している。こうした様子は表3-1と図3-1からも読み取ることができる。
こうして激減した鉄道債券の代わりに、1988(昭和63)年度から始まった民間(都市銀行、信託銀行、長期信用銀行)からの借入金と、1992(平成4)年度から格付けを取得して発行を始めた社債(国内普通社債、外債)が長期資金調達の中心になった。1997(平成9)年度末で、民間借入金48.6%(=1兆297億円/2兆1,194億円)、社債28.2%(=5,979億円/2兆1,194億円)となっている。
また、JR東日本は、発足年度である1987(昭和62)年度から、日本開発銀行(以下「開銀」と略記)の融資を受けるようになる。国鉄時代の民間(都市銀行、信託銀行、長期信用銀行)からの借入金の承継債務と開銀融資の合計額は、民営化後、ほぼ4,000億円程度で一定しており、表面的には、開銀融資が民間借入金の承継債務に取って代わる形になっている。
ただし、これには変化の兆しが見られる。1990年代後半に入って、大蔵省の財政投融資政策に批判が集中して、旧国鉄清算事業団及び旧鉄道整備基金等に対しても当分の間、財投を貸さない方針となった。開銀融資に関しても、関係各省庁では、(a)上場企業で1,000億円近くの経常利益を出す会社に対して財投資金を基準とした低利融資をしてもよいのか、(b)日本開発銀行等の政府系金融機関の統廃合、(c)中小企業を対象とした低金利時の期限前返済、(d)上場企業で国内格付が最高ランクの会社に対する融資割合のカット、等が議論された。これを反映して、JR東日本の対象工事額に対する融資率は、1995(平成7)年度50%、1996(平成8)年度45%、1997(平成9)年度40%、1998(平成10)年度30%と低下している。一方、後述するように、社債発行の面でも制度変更があった中で、JR東日本は高い格付けを維持することで、社債による市場からの調達金利低減に成功し、ついに1999年2月発行の10年ものの社債では、開銀融資の特別金利2.2%よりも低い金利2.18%で調達できるようになった。このような情勢の中で、JR東日本は1999(平成11)年度からは、開銀からの新規融資は受けない方針で、今後、開銀融資残高は徐々に減少する見込みである。
こうして、調達方法を変化させることで、JR東日本は低金利時代の風をうまくとらえて、高金利資金から低金利資金への借換を進めた。そのおかげで、長期債務の表面金利は、JR東日本発足時の1987(昭和62)年度期首の7.13%から1998(平成10)年度期末の4.62%にまで低下させることに成功している。
国鉄時代から、確かに財投や開銀融資は民間借入金よりも金利が低かったし、その状況は今日に至るまで変わっていない。しかし、政府保証債を含めて財政投融資が利用できなくなり、開銀融資も制限が厳しくなったにもかかわらず、JR東日本は国鉄と同じ道を歩んでいるようには見えない。その理由は、これから説明するように、1996(平成8)年に社債発行の面での制度変更があり、このことでJR東日本にも開銀融資並みの低金利で社債によって資金調達をする道が開かれたこと、そして後の節で触れるように、JR東日本が節度を守った設備投資政策をとっていることである。
まずJR東日本を巡る各種主要金利の動きについて概観しておこう。図3-3でもわかるように、ここ数年の傾向として、財投は10年もの国債の表面金利に+0.2〜0.3%、開銀融資は財投の金利に+0.1〜0.2%といわれるが、こうした金利差は財投の仕組みから来るものである。資金運用部が、郵便貯金、厚生年金・国民年金等の預託金に対して支払う利子の利率は預託金利と呼ばれるが、国鉄の分割民営化の直前、1987(昭和62)年3月に資金運用部資金法が改正され、預託金利の法定制を改め、政令で定めることにし、それ以降は市場における長期金利の代表的指標である10年もの国債の表面金利を基準にして弾力的に決められることになった。資金運用部では、この預託金利で預託された資金をサヤを取らずに同一の利率の財投金利で各財投対象機関に貸し付けている。また日本開発銀行のような政策金融機関の場合は、基本的に民間の長期プライムレートを基準金利としつつ、政策的な必要性に応じて、財投金利と長期プライムレートの間で優遇金利を設けて、長期、低利の融資を行っている(大蔵省理財局, 1993, p.20; 増井, 1998, p.101)。こうして、財投と開銀融資との間に金利差が生じることになるのである。
図3-3. 各種金利の推移
JR東日本の場合、既に述べたように、財投資金は直接利用できず、開銀融資の形でしか利用できない。しかし開銀融資とはいっても、基本的に財源が財投である以上、国の予算にしばられるために、金利が高い時にも、予算計上した分を借り入れなければならない。また期限前返済ができないことから[13]、金利が低下した場合でもその金利低下のメリットを生かせない。したがって、平均金利で見た時には、必ずしも開銀融資の金利が低くなるわけではないのである。それに対して、JR東日本の場合には、表3-2に示されているように、社債の格付けが高いために、社債の金利は低く、1996年度以降、市場からであっても、開銀融資の特別金利並みあるいはそれ以下の低金利で調達することが可能になったのである[14]。しかも社債の場合には、国の予算に縛られないので、その分、機動的に調達、償還が可能である。こうしたことがJR東日本の自己調達志向を強める結果となっている。
表3-2. JR東日本の社債の発行条件
発行年月日 | 銘柄 | 発行額 (億円) | 年限 (年) | 格付け | 発行利率(%) | 各種金利(%) | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
R&I | ムーディーズ | S&P | 国債(10年) | 政府保証債(10年) | 開銀融資特別金利 | |||||
1992年10月5日 | 第1回普通社債 | 1,000 | 12 | AAA | Aa2 | AA | 5.550 | 5.000 | 5.100 | 5.150 |
1995年3月6日 | 第2回普通社債 | 700 | 20 | AAA | Aa2 | AA | 4.900 | 4.400 | 4.500 | 4.650 |
1996年3月11日 | 第3回普通社債 | 1,000 | 20 | AAA | Aa2 | AA | 3.950 | 3.200 | 3.300 | 3.400 |
1997年2月25日 | 第4回普通社債 | 600 | 12 | AAA | Aa2 | AA | 2.900 | 2.600 | 2.600 | 2.900 |
第5回普通社債 | 400 | 20 | AAA | Aa2 | AA | 3.300 | ||||
1997年8月12日 | 第6回普通社債 | 400 | 12 | AAA | Aa2 | AA | 2.875 | 2.500 | 2.500 | 2.700 |
第7回普通社債 | 300 | 20 | AAA | Aa2 | AA | 3.300 | ||||
1998年2月25日 | 第8回普通社債 | 400 | 12 | AAA | Aa2 | AA | 2.650 | 2.100 | 2.200 | 2.400 |
第9回普通社債 | 300 | 20 | AAA | Aa2 | AA | 3.075 | ||||
1999年2月10日 | 第10回普通社債 | 400 | 10 | AAA | Aa2 | AA- | 2.180 | 1.900 | 2.000 | 2.200 |
第11回普通社債 | 300 | 20 | AAA | Aa2 | AA- | 2.970 |
従来、日本では、格付けとは関係なく、純資産額などの財務的な数値基準によって安全と思われる企業に限定して社債発行が認められてきた。しかし、国鉄の分割民営化の直前、1987(昭和62)年2月に、従来の数値基準を満たさなくても一定格以上の格付けを取れば債券の発行が可能になり、数値基準と併用して格付けが適債基準として使われるようになったのである。その後、1990(平成2)年6月には数値基準が廃止されて、適債基準は格付け基準に一本化された(黒沢, 1999, pp.116-117)。
ただし、これでもまだ社債による資金調達には大きな障壁があった。それは、発行後デフォルト(債務不履行)が発生しても、債券は社債発行を取り扱った受託銀行が額面で一括して買い取るという慣行があったのである。正確に言うと、有担保原則と呼ばれ、社債発行に際して、起債者は営業用資産である土地や建物などの不動産を担保として受託銀行に提供しなければならず、万一、返済不能になった時は、受託銀行が返済不能社債をすべて買い上げるというものであった。しかしこの安全性確保のための保険料相当分が、受託手数料として、発行者の信用力に関係なく一律に上乗せされたために、信用リスクがない代わりに、社債は信用力の高い発行者にとってあまり魅力的な存在ではなくなっていたのである(日本格付投資情報センター, 1998, pp.56-59; 黒沢, 1999, p.105)。
しかし、1996(平成8)年1月に適債基準が廃止されてから、格付けは大きな意味を持ち始める。債券の格付けは、元利払いの安全性、すなわち債務返済の安全度を評価したもので、例えばR&Iでは[15]、長期債の場合、安全度の高い方から順に、AAA, AA, A, BBB, BB, B, CCC, CC, Cと段階的に表しているわけだが、この格付けによって債券発行の際の利回りが決まるようになったのである。しかも、表3-3に示されるように、1996(平成8)年秋以降、市場全体に低金利傾向が続く中にあってさえ、AAA格社債と他の格付けの社債との利回り格差は拡大する傾向にある(日本格付投資情報センター, 1998, ch.2)。そして、1998(平成10)年10月16日現在、R&Iの格付け別の残存4年の社債の利回りは、表3-4のようになっていたのである。
表3-3. R&IのAAA格社債との流通利回り格差(残存年数3年) (単位: %ポイント)
R&I格付け | AAA格社債との流通利回り格差 | ||
---|---|---|---|
1997年6月30日 | 1997年12月29日 | 1998年10月16日 | |
AA | +0.104 | +0.264 | +0.376 |
A | +0.346 | +0.621 | +0.928 |
BBB | +0.956 | +1.485 | +1.797 |
表3-4. R&Iの社債格付け別流通利回り(1998年10月16日現在、残存年数4年)
R&I格付け | 銘柄数 | 流通利回り |
---|---|---|
AAA | 46 | 1.117% |
AA | 47 | 1.466% |
A | 95 | 1.989% |
BBB | 28 | 3.015% |
BB | 6 | 6.761% |
B | 1 | 31.665% |
株式の売買に関して買いか売りかを表した株価の格付けは、成長性や短期的な収益変動に評価の重点がある。しかし社債の場合は、成長性の高い(=少なくとも一時的には収益力の大きな)いわゆる「優良企業」が債券の高い格付けをもっているとは限らない。社債の格付けに際しては、収益力やキャッシャフローの安定性、そして資産内容の健全性が重視される。したがって、利益水準が低く、設備投資の負担が重いために財務構成が見劣りするような電力会社でも、沖縄電力を含めた10社全部が、地域独占と総括原価主義によって、収益の安定性や投資の回収が制度的に確保されているという理由で、R&IのAAAの格付けを取得している(日本格付投資情報センター, 1998, ch.5)。このことからもわかるように、電力会社と同様の事情をもった鉄道事業者は、元来は社債の格付けにおいては優位に立ちうるのである。
実際、JR東日本を含めた本州3社はR&Iの格付けをとっている。特に、1992(平成4)年に国内及び海外の格付けを取得したJR東日本の場合には[16]、JR各社の中で唯一、外債の発行に必要なムーディーズとS&Pの格付けをもとり[17]、分割民営化以来、長期債務を確実に減少させ、経営基盤を強化する中で、高い格付けを維持することで、こうした社債発行の環境変化をプラスの方向に生かすことに成功してきた。
表3-2にはJR東日本が発行してきた普通社債の発行条件が示されているが、JR東日本の社債の格付けは、日本企業が軒並み格付けを落としている1998年度の年度末でも、R&IがAAA、ムーディーズがAa2、S&PがAA-、と高い。この高い格付けを維持しているおかげで、1996年度以降、市場からであっても、開銀融資の特別金利並みあるいはそれ以下の低金利(電力会社とほぼ同程度の金利)での調達を可能にしてきたのである。
民営化後のJR東日本は、こうして金利との競争を続けてきた。その結果、金利感覚の点では、いまや政府との間で明らかに温度差がある。そのことが顕在化した事例が、ここで取り上げる新幹線債務の早期弁済制度と次項で取り上げる無利子貸付金制度のそれぞれ運用に関する対立問題である。どちらの制度も運輸施設整備事業団(旧 鉄道整備基金)が関与している。
既に述べたように、鉄道整備基金は、新幹線鉄道保有機構の解散時において、同機構の一切の権利及び義務を承継するものとして1991(平成3)年10月1日に設立され、さらに、1997(平成9)年10月1日には 鉄道整備基金と船舶整備公団が統合されて運輸施設整備事業団が設立された。運輸施設整備事業団はJR本州3社から入ってくる既設新幹線譲渡代金を、さらに整備新幹線の建設資金に交付金として交付したり、あるいは地下鉄建設などに無利子貸付金として貸し付けたりもしている。巨額でかつ有利子の旧国鉄債務を抱えている状況にあって、一刻も早く新幹線譲渡代金を債務返済に回さなければ、金利負担で債務が年々雪達磨式に増加してしまうのに、なぜか新幹線譲渡代金は交付金や無利子貸付金に回されているのである。こうしたこと自体が国民に対する背任行為とも思えるのだが、このような政府の金利感覚に基づいて、運輸施設整備事業団の諸制度が運用されていることがJR側との対立の根底にある。
国鉄時代末期の特別債発行の仕方には、こうした政府側の金銭感覚と同じような匂いが漂っていたわけだが、民営化後のJRは明らかに異なる行動をとり始めている。実は、JR東日本、JR西日本、JR東海のJR本州3社は、新幹線債務の期限前返済(これを運輸施設整備事業団では「早期弁済」と呼んでいる)には積極的なのである。事実、これまでに実現した新幹線債務の期限前返済は、JR本州3社の強い働き掛けによるものであった。
具体的には、新幹線債務の変動分(25.5年償還、平成10年度適用利率5.02%)について[18]、低金利時代で資金の運用先が見つからずに困っている経営安定基金(三島基金)との関係で、1997(平成9)〜2001(平成13)年にJR東日本が1400億円、JR本州3社で4000億円を早期弁済できることになったのであるが、その経緯は次のようであったといわれる。
【1996(平成8)年8月27日運輸省のプレス(記者)発表の内容】
JR北海道、JR四国、JR九州に対する支援策の一環で、経営安定基金(三島基金)の運用益を確保することを目的とし、1997(平成9)年度以降5年間、鉄道整備基金(現 運輸施設整備事業団)がその調達資金のうち、従来の民間借入金及び政府保証債券相当分を3社の経営安定基金から4.99%の固定利率(過去10年間の長期国債平均利回り)で借り入れることにより、3社の経営安定基金の運用益の確保を図る。
このように2, 3のような状況下で、つじつま合わせ的に将来の金利負担も考えずに4を発想する政府側の金利感覚には驚かされるが、それに対して、民営化したJR本州3社の資金調達に関する民間的感覚、特に金利に対する感覚が対照的に際立っていて興味深い。ちなみに、6にあるような年度末の返済期日に対して、JR側は、年度末にこだわらずに、少しでも早く返せばその分の金利分を安くしてもらえるのではないかと交渉したが、断られたといわれている。
次に無利子貸付金制度の話に移ろう。無利子貸付事業は1991(平成3)年10月の鉄道整備基金の設立に伴い創設された制度である。ところが、鉄道公団の制度との整合性が悪いために、「無利子」が有名無実化している。より具体的には、鉄道整備基金が無利子貸付金の償還方法を5年据置後10年元金均等半年賦償還としているのに対して、鉄道公団が譲渡対価の回収方法を25年元利均等半年賦償還としているために、実質的に無利子貸付金制度が「無利子」ではなくなるという現象が生じているのである。
現在でも運輸施設整備事業団の無利子貸付金の償還方法は5年据置後10年元金均等半年賦償還とされている。ところが、当該制度創設に当たっての運輸省における検討過程においては、当該無利子貸付事業により建設等がなされた鉄道施設の対価の回収方法は、現行の鉄道公団のP線(Private線; 民鉄線の意味)制度と同様、25年元利均等半年賦償還方式による方法を念頭においていたと思われる。実際、当該無利子貸付事業の創設と同時に、当該事業による鉄道施設の譲渡の方法についての規定が鉄道公団法施行令に定められなかったが、これは現行のP線と同様の譲渡対価の回収方法、すなわち鉄道公団法施行令第9条による元利均等半年賦支払の方法によるものという考えがあったためと推測される[19]。
このような背景から、無利子貸付事業により建設等を行った鉄道施設の譲渡に伴う譲渡対価の計算方法として、1994(平成6)年11月8日に運輸大臣から鉄道公団に対して、鉄道公団法施行令第9条第2項に基づき「運輸大臣が指定する期間」を「鉄道施設を譲渡し又は引渡した後25年間」とし、「運輸大臣が指定する利率」を「鉄道施設の建設又は大改良に係る借入に係る利率」とする旨の指示が出された。これは、
このように、この制度はもともと第三セクターのような経営基盤の脆弱な鉄道事業者に適した制度であり、JR東日本のような自前の資金調達能力にも優れた優良企業向けを必ずしも意図したものではなかったといえるのかもしれない。そのこと自体が正しいかどうかは、第4章のドイツの例などを考えると疑問が残るが、少なくとも、せっかく無利子貸付金制度を作ったにもかかわらず、鉄道公団側にそれに合わせた譲渡対価の回収方法を規定しなかったために、「無利子」が台無しになってしまったのである。そのことは、JR東日本の無利子貸付金制度の適用をめぐる事例を見ることで、明らかになる。
JR東日本の秋田新幹線の工事、正確には「田沢湖線盛岡・大曲間及び奥羽線大曲・秋田間の大改良工事」は、当時の鉄道整備基金の助成対象事業となることから、JR東日本は、1992(平成4)年2月5日付けで助成条件である鉄道公団工事の申し出をし、6日付けで旧基金法に基づく事業認定申請を行った。総工事費598億円のうち490億円については、無利子貸付金で賄われることになった。ただし、基金からの無利子貸付金を利用する際の事業認定の前提条件として、基金の無利子貸付金と同額同条件の無利子貸付金が関係自治体から出されることになっていたために、無利子貸付対象事業認定額490億円の半額245億円は基金から鉄道公団への5年据置後10年償還の無利子貸付金で、残り245億円は秋田県・岩手県からの5年据置後10年償還の無利子貸付金で賄われたのである[20]。こうして、具体的な鉄道公団の施設工事費資金調達は表3-5のようになった。
表3-5. 日本鉄道建設公団から見た秋田新幹線の施設工事費資金調達 (単位: 億円)
調達 | 使途 | ||
---|---|---|---|
項目 | 金額 | 項目 | 金額 |
国(50%) | 245 | 施設改良費 | 598 |
地元(50%) | 245 | ||
借入金 | 108 | ||
計 | 598 | 計 | 598 |
こうして、事業基本計画変更認可申請及び事業認定申請の際に、490億円を超える部分の資金調達は、鉄道公団の調達する有利子資金によるものとして決着済であることから、当該工事の実施の結果、無利子貸付対象事業費を超えた部分については、鉄道公団の特別債(いわゆる「公団債」)を発行することにより手当てされることになった。
1992(平成4)年8月3日に工事は着手され、完成・譲渡は1997(平成9)年3月21日だった。しかし実際には、コスト削減等により、総工事費は消費税を含めて531億円(=建設費用516億円+消費税15億円)であった。そのため結果的に、建設費用516億円の内、490億円が無利子分で、残りの26億円は鉄道公団が公団債で調達した有利子資金となったのである。正確に言えば、公団債充当額は2,634,500千円、利率2.9%であった。
こうしてJR東日本の秋田新幹線の場合、当初の工事実施計画の際から、必要な総事業費と無利子貸付事業の対象事業費との間には開きがあり、残りの事業費については、JR東日本が最終的に負担することになっていたために、結果的に、譲渡時で26億円は、鉄道公団が公団債で調達した有利子資金となっていたことになる。つまり無利子貸付金での建設とはいっても、当初から平均金利0.02%とはいえ、有利子資金となってしまったのである。しかし、本当に重要なことは、この平均金利が今後どんどん高くなっていき、いずれ全額が有利子資金に化けてしまう次のようなメカニズムを制度自体が内包しているということである。
つまり、対価の回収期間と貸付金の償却期間の不一致、すなわち、無利子貸付金が償還期限15年であるのに対して、鉄道公団と鉄道事業者との間には、25年償還の契約しか結べないことから発生する無利子資金の有利子化なのである。
この事実に気がついたJR東日本側は、秋田新幹線の譲渡の4ヶ月ほど前から、15年返済を希望して鉄道公団と交渉したが、叶わなかったといわれている。鉄道公団としては、制度は一つであり、しかも譲渡対価の回収方法を鉄道公団が独自に決定することは不可能なので[21]、JR東日本のような優良企業のみに特別な譲渡対価の回収方法を認めることは不可能であるということになるのであろうが、政府は、もっと柔軟な制度にしても特段問題はないのではないだろうか。 秋田新幹線の譲渡に当たっては、鉄道公団はJR東日本に対して、こうした事情を説明して、1996(平成8)年12月3日に「田沢湖線・奥羽線の大改良及び譲渡・引渡し条件等協定書」を締結すると共に、25年間の譲渡対価の回収シミュレーションを作成し提示している。
JR東日本はこれに懲りて、山形新幹線の山形・新庄区間の延伸工事の際には、運輸施設整備事業団の無利子貸付金制度を利用せず(すなわち鉄道公団も経由せず)、地元の山形県 (正確には、山形開発公社)から10年据置後10年償還または5年据置後10年償還の無利子貸付金をJR東日本が直接受けて、工事を行っている[22]。
これまで見てきたように、JR東日本は金利との競争の中で、金利感覚を磨きながら、それまでの財投方式から自己調達方式へと資金調達の方法を切り替え、低金利時代の風をうまくとらえて、資金調達コストを大幅に低下させることに成功してきた。そのことは国鉄清算事業団をはじめとする旧国鉄債務を抱えた国の特殊法人と比較すると対照的である。そして、JR東日本の金利との競争を成功に導いた背景には、節度を守った設備投資政策の存在があることを忘れてはならない。国鉄の経営破綻の教訓を体現化したものとして、JR東日本の設備投資政策は注目に値する。
まず、JR東日本には、鉄道の需要が将来大きく伸びることはないという基本認識がある。にもかかわらず、新線建設を急げば、鉄道事業は、設備投資額が巨額なために、そこから発生する負債額も減価償却費も巨額となる。減価償却費によって営業利益が出なくなるばかりか、仮に営業利益が出たとしても、負債が有利子負債であれば、利率の変動だけで、営業外収支の支払利息が変動し、経常収支が大きく左右されてしまうことになる。つまり鉄道業から生み出された営業利益が、金利の変動で吹き飛ぶことも十分にありうる。これではいくら営業努力を積み重ねていても報われない。かくして第1章でもみたように国鉄の経営は破綻したのである。
それに対して、JR東日本は、減価償却費の範囲内でしか設備投資を行わない方針を採っている。既存の路線の改良により輸送力を伸ばす工事等は行っているが、設備投資(≒建設工事費、一部車庫用地等の土地購入を含む)は原則的に減価償却費 (JR東日本の場合は、年間2,200〜2,300億円) の範囲内とされている。減価償却費の範囲内でということは、言い方を変えれば、設備更新のための内部留保の範囲内でということである。こうした歯止めを自らかけたことで、JR東日本では、民営化後、鉄道新線の建設は行っていないし、現在のところ新線建設計画もない。
新線建設を行わないということに関して、JR東日本がこだわりを持っていることを示す事例がいくつもある。例えば、やや微妙なのは東北新幹線の場合だが、国鉄時代、鉄道敷設法に係わる建設と上越新幹線の建設は鉄道公団が工事主体となり、東北新幹線の建設は国鉄が工事主体であった。東北新幹線の東京・上野間の工事は民営化後だったが、当時の新幹線保有機構からJR東日本が受託して施行管理したものだったので、民営化後はJR東日本による新線建設はなかったというのが、JR東日本側の見解である。またJR東日本が出資した会社が新線工事を行うこともない。例外的に、東京臨海高速鉄道株式会社には出資しているが(出資比率4.91%)、増資には応じないことになっている。こうして、枠をはめて設備投資を押さえていることが、国鉄時代との違いの根底にある[23]。
さらに改良工事をする場合であっても、注意深く資金調達スキームを選択してきている。JR東日本では、山形新幹線、秋田新幹線の場合など、既存路線の改良の際には、路線ごとに経営管理部や投資計画部が収入の予測などを行い、採算性の検討を行っている。ただし、この場合には、資金調達コストは計算に入れていない。その理由は、JR東日本の場合、こうした建設工事費はすべて地方自治体等からの無利子貸付金を前提としているからであり、原則としてそれ以外のケースでは、工事は行われないからである。この背景には、資金調達リスクを回避するという考え方がある。たとえ償還期間が長期であっても、有利子資金ではリスクが大きい。金融機関でさえ、現状では長期でも5年程度の貸し出しが通常であり、数十年にも及ぶ「超長期」の貸し出しは行っていないという事実は、こうしたリスクに金融機関ですら対応しきれていないことを示しているというのである。そこで、資金調達リスクを極力回避する調達方法が取られているのである。
つまり金利との競争を続ける一方で、金利リスク自体を抑える方策が採られているのである。こうして、鉄道事業者は資金調達コストやリスクそして減価償却費といった資本関係費用をできるだけ抑え、営業に専念すべきであるという発想から生まれたルールが、JR東日本のように、減価償却費の範囲内、すなわち内部留保の範囲内でしか設備投資を行わないし、仮に、秋田新幹線や山形新幹線のような既存路線の改良の際にでも、建設工事費はすべて無利子貸付金を前提とするということなのである。ここに一つの鉄道事業者像が浮かび上がってくる。
鉄道事業にとって重要なのは鉄道諸施設の資産価値ではない。確かに、鉄道諸施設を所有できれば、その方が望ましい。しかし、所有するために要する資金調達コストやリスクそして減価償却費といった資本関係費用は鉄道事業の場合には莫大なものになる。それをすべて運賃収入でまかなうことはまったく現実的ではない。JR東日本の場合でも、いったん新線を譲渡されてしまうと、その後は莫大な減価償却費が発生して、減価償却費の範囲内に設備投資を押さえるという歯止め自体が意味を失う可能性が十分にある。
こうした譲渡方式に対して、新線の場合には、採算の範囲内に賃借料をおさめるのであれば、賃借料方式は効果的である。例えば整備新幹線の場合は、鉄道公団が建設し、完成後も所有権は鉄道公団に残り、JR各社は譲渡を受けずに、借り受けて、賃借料を支払いながら営業をするだけである。その際の賃借料は、収支の範囲内に設定されている。実は、こうした貸付方式は国鉄時代から存在している一般的な方法なので、このことを整理しておこう。
旧国鉄の新線の区分と資金調達・貸付・譲渡は表3-6のように整理できる。国鉄の新線建設に当たっていた鉄道公団は、1964(昭和39)年3月23日の公団設立当初においては、有償または無償の貸付線の建設をすることになっていた。ここでいう有償の貸付線とは、CD線、E線の津軽海峡線、G線である新幹線のことであり、無償の貸付線とはAB線のことである[24]。
表3-6. 旧国鉄の新線の区分と資金調達・貸付・譲渡
区分 | 目的 | 建設資金 | 貸付 | 譲渡 | |
---|---|---|---|---|---|
AB線 | 地方開発線 及び地方幹線 | 主として地域格差の是正に資する線 | 無償資金のみ | 無償 | JR各社、国鉄清 算事業団に承継 |
C線 | 主要幹線 | 主要都市間の輸送力増強を企図する線 | 多くの輸送需要が見込めるため、 有利子資金(財投資金と民間資金) が充当され、開業後、国鉄から 公団に償還される | 有償 | 貸付期間経過後は 譲渡 |
D線 | 大都市交通線 | 大都市の輸送力の増強を図る線 | |||
E線 | 海峡連絡線 | 津軽海峡線をはじめとする線 | 公団の永久保有 | ||
F線 | 追加建設線 | 鉄道新線建設長期計画(1966年12月)にあったが具体化しなかった | |||
G線 | 新幹線 | 全国新幹線鉄道整備法(1970年5月公布6月施行)を受けて、1971年4月に 運輸大臣が整備計画を決定し、上越、成田両新幹線の建設を公団に、 東北新幹線の建設を国鉄に指示したことで、公団が初めて新幹線の 建設に携わることになった | 有償 | 1989年以降に建設 した整備新幹線は 公団の永久保有 |
1970(昭和45)年3月に公団法施行令が改正になり、建設した鉄道施設は、1969(昭和44)年4月1日以降、すべて一旦貸し付けた後、一定の貸付期間を経過したものについて譲渡することに変更になった。現行では、40年返済(80回分割払い)で、完済後に譲渡されることになる。国鉄の民営化に伴い、貸付線の多くはJR各社及び国鉄清算事業団等に承継され、所有権も移っているが、まだ鉄道公団設立から数えても40年たっておらず、完済した例はない。JR各社は返済を続けている。例えば、大きな輸送需要が見込めるために、旧国鉄のCD線のうち、根岸線・武蔵野線・京葉線等は、現在も鉄道公団の貸付線事業となっている。これらも完済すればJR東日本等に譲渡される。
それでは、貸付料はどのようにして計算、設定されているのだろうか。貸付料の計算は、表3-7のように行われている。表3-7(A)の@の部分での「運輸大臣が指定する期間と利率」は、主に利子補給の対象及び基準が改定されることに伴い、たびたび改定されてきた。その結果、「上越新幹線」「湖西線」「根岸線」「その他」のそれぞれについて期間と利率が指定・改定されてきている。利率は4.5%〜6.5%だったが、貸付線に対しては、利子が5%を超える分についてはその全額が、国から運輸施設整備事業団(旧 鉄道整備基金)を通して鉄道公団に対して利子補給が行われることになっている。
表3-7. 貸付料の計算
(A)貸付料の要素
建設に要した費用 (建設期間中の利子 等と租税を含む) | 借入部分 | 運輸大臣が指定する期間と利率による元利均等 半年賦支払の方法により償還するものとした 場合における当該年度の半年賦金の合計額 | (1) |
借入部分以外 | 減価償却費の額 | (2) | |
鉄道建設債券の債券発行費と債券発行差金 | (3) | ||
租税と管理費の合計 | (4) |
(B)貸付料の計算式
区分 | 毎年度の貸付料 | 備考 |
---|---|---|
CD線 | (1)+(2)+(3)+(4) | 1969年度〜 |
(2)+(4) | 根岸線桜木町・磯子間 | |
E線 (津軽海峡線) | (4) | 1988年3月〜 |
G線 (整備新幹線) | 当該新幹線を整備した場合の
収益と当該新幹線を整備しな +(4) い場合の収益との差(定額) |
例えば、高崎・長野間 は毎年度175億円 |
そうした中で、注目されるのは、G線の整備新幹線の貸付料の計算方式である。当該新幹線を整備した場合の収益と当該新幹線を整備しない場合の収益との差(定額)にC租税と管理費の合計を加えるという方式であれば、鉄道事業者は、支払利息や減価償却費といった資本関係費用の重圧とリスクから解放されて、営業に専念することができる。既に北陸新幹線の高崎・長野間の貸付料が毎年度175億円と定額で定められている。金利との競争を続ける一方で、こうした金利リスク自体を抑える制度、方策も模索されるべきなのである。
これまで見てきたように、民営化後、JR東日本は金利と競争し、負債額と平均金利の圧縮に成功してきた。しかし、機動性を発揮するという点では、民営化後もまだ問題点が残っている。それは、JR各社の場合、会社法の中で、社債発行だけではなく、1年以上の長期借入金に対しても、運輸省の認可が必要になっている点である。JR東日本の場合、長期借入金の1回の調達で500〜600億円程度の資金調達をするが、それには事前準備も含めて認可に2ヵ月程度もかかっているといわれる。こうした現状では、機動的に金利の変動に対応できない。例えば、1998(平成10)年の10月から12月上旬までは、借入金の調達や社債を発行するのに、非常に良い環境であった。この時期の10年もの国債の表面金利は1%前後だったが、その後12月下旬には10年国債の金利は2%を超える水準になっている。もし認可申請をしなくてもJR東日本が自由に起債や借入を行うことができるのであれば、この絶好の機会を生かすことができたはずだが、それはできなかった。この金利差では、調達額1,000億円で、10年間で約100億円の支払利息の差が出ることになる。機動性を発揮するためには、JR全社とはいわないが、せめて株式市場に上場した会社については、こうした認可制度をはずしていった方が望ましい。
また、既に見たように、秋田新幹線の場合には、公団工事ではあったが、JR東日本が施行管理に当たり、10%以上のコスト削減効果をあげているという事実は注目に値する。なぜなら、鉄道公団側にとっては、鉄道事業者ほどには有利子資金を減らそうというインセンティブがないからである。
もちろん、鉄道事業者に鉄道施設を譲渡した後、鉄道事業者の経営が立ち行かなくなり、鉄道公団に譲渡対価を支払えなくなった場合には、鉄道公団側に欠損が生じることになる。また、鉄道公団が、鉄道施設の建設コスト縮減に資するようにと、技術開発分科会、建設費総額管理委員会、建設コスト低減方策検討特別委員会等を設置して努力していることも事実である。しかし、それでもなお発生する工事着手後の工事費増や用地買収の遅れから来る建設期間の大幅超過に伴う利払の大幅増加等については、その費用増加分が鉄道公団側の損失となるわけではない。建設工事が遅れたり、計画よりも余計に費用がかかっても、その分は公団債を発行して資金を繋いで、その追加額をそのままプラスして、鉄道事業者に譲渡できるという構図が、鉄道公団側に残されている限り、やはり鉄道事業者ほどには積極的に有利子資金を減らそうというインセンティブは生まれないだろう。工事遅延や工事費増の際に、鉄道公団が鉄道事業者に対して事前説明をすることに一体どれほどの意味があるのだろうか。
こうした鉄道公団のような存在は、ファイナンス機能という点で便利ではあるが、同時に、鉄道公団自身が工事の施行管理に当たった場合には有利子資金を減らそうというインセンティブが少ないという点では危険でもあり、まさに両刃の剣といえる。用地買収などに時間がかかり過ぎ、建設期間が大幅に延びることで有利子資金の額が膨らんでしまおうとも、鉄道公団側は赤字になることはないという構造自体が、たとえ表面化していなくても問題なのである。その意味では、一部の民鉄線の工事や秋田新幹線の工事のように、公団工事であっても鉄道公団に施行管理を任せきりにせずに鉄道事業者自らが施行管理を行うことは、鉄道建設時にかかる有利子資金の圧縮には効果的である。
あるいは既に触れたようなG線(整備新幹線)で行われている貸付方式は、鉄道公団側にもリスク・シェアリングをさせるという点で、効果があるかもしれない。当該新幹線を整備した場合の収益と当該新幹線を整備しない場合の収益との差(定額)にC租税と管理費の合計を加えるという方式であれば、建設工事が遅れて利子がかさんで有利子資金が膨らんでしまった時のリスクを鉄道公団側が背負うことになる。そうすれば、当然、有利子資金額と工事期間の両方を圧縮しなければならないというプレッシャーになるはずである。
かつて、日本国有鉄道清算事業団の債務償還のためにとるべき諸施策を示した1989(平成元)年12月の閣議決定で「事業団の債務処理は、いわば金利との競争である」という表現があったが、その後の事業団債務の増加は、事業団の資産売却収入が、債務元本から発生する利子との競争に最終的に負けたことを示すともいわれる(石堂, 1999)。国鉄の教訓を生かすためには、いずれにせよ、鉄道建設も鉄道経営も、金利との競争であるということを忘れてはならない。鉄道工事に当たっては、有利子資金額と工事期間の両方をできるだけ圧縮して、鉄道事業の収益構造自体の悪化を回避しなければならない。支払利息で営業利益が吹き飛ぶような状況下に置かれていては、いくら営業努力を積み重ねても報われず、いつしか営業努力自体も忘れ去られることになるのだから。
[13]ただし、開銀融資は1997(平成9)年になって、この年度以降の借入契約について初めて繰り上げ返済ができるようになった。
[14]実は、歴史上、債券格付けの最初の対象となったものが、まさに鉄道債券だったのである。現在の米国における2大格付け機関の一つ、ムーディーズ・インベスターズ・サービス(Moody’s Investors Service, Inc.)は、創業者ジョン・ムーディー(John Moody)が1900年に鉄道会社の統計資料出版のために設立した会社であった。同社が1909年に発行した『ムーディーズ鉄道債券投資分析』の中で、鉄道会社の発行する債券250社1500銘柄の投資物件としての優劣をAaaからCまでの記号で9段階に格付けしたのが、最初の格付けだったといわれている(黒沢, 1999, p.87)。
[15]日本では、1975年に日本経済新聞社が社内に公社債研究会を設置して試験的な格付けを始め、1979年4月には日本経済新聞社の内部組織のまま日本公社債研究所(JBRI)に改組した。1985年4月にこの研究所は日本経済新聞社を株主とする株式会社として再スタートしたが、同時に生損保などの機関投資家系格付け機関として日本格付研究所(JCR)、銀行・証券系格付け機関として日本インベスターズサービス(NIS)が設立された。これら三つの民族系格付け機関のうち、JBRIとNISは1998年4月に合併して、日本格付投資情報センター(R&I)となった。こうして、R&Iと日本格付研究所(JCR)の民族系2社と米国の2社の格付けが、日本で主に使われるようになったのである(日本格付投資情報センター, 1998, p.45; 黒沢, 1999, p.114)。
[16]格付け会社は、通常は債券発行者(起債者)からの依頼を受け、契約を結んで格付けを行う。起債者は格付け機関の調査に応じ、情報を提供し、格付け手数料を支払い(起債者の格付け有料化に成功したのは、1968年のS&Pが最初であった(黒沢, 1999, p.89))、格付け機関は公表に当たって守秘義務を負うという契約である。この他にも「勝手格付け」といわれ、発行者からの依頼なしに格付けを行い発表することがある。勝手格付けについては、R&Iではop (official publications)、S&Pではpi (public information)、という記号を付しているが、ムーディーズの場合(「自動格付け」と呼んでいる)は区別していない。
[17]ムーディーズは1962年に大手信用調査会社ダン・アンド・ブラッドストリートに買収され、現在は100%子会社となっている。一方、ムーディーズと並ぶ米国の2大格付け機関の一つ、スタンダード・アンド・プアーズ(Standard & Poor’s Corp; S&P)の方は、1860年設立のプアーズ社と1920年設立のスタンダード社が1941年に合併してできた格付け機関であるが、プアーズ社は1922年から、スタンダード社は1924年からそれぞれ格付けを行ってきていた。S&Pは1966年に大手出版社マグローヒルに買収され、100%子会社になっている(黒沢, 1999, p.89)。
[18]新幹線債務には、この他に整備新幹線等に利用している上乗せ分(60年償還6.55%)がある。
[19]1972(昭和47)年にP線業務が創設された際には、同時に鉄道公団施行令第9条の3としてP線の譲渡対価の回収方法が規定化されている。
[20] JR東日本が、鉄道事業法(昭和61年法律第92号)第7条第1項及び同法施行規則第7条の規定に基づき、1992(平成4)年1月28日に運輸大臣宛に申請した「事業基本計画の変更認可申請書」の「建設費概算書」によれば、工事費は「約598億円(平成3年度価格)」とされ、同申請書の「事業の開始に要する資金の総額及び調達方法」によれば、「施設工事費については、鉄道整備基金の補助制度を適用し、国は工事費の1/2を無利子融資、地元も国と同等とし工事費の1/2を無利子融資する」とされている。ただし、1992(平成4)年2月6日に鉄道整備基金法(平成3年法律第46号)第22条第1項に基づき申請した「事業認定申請書」においては、基金認定申請額は「490億円」とし、その調達方法は「鉄道整備基金からの無利子貸付け、地方公共団体の無利子貸付け」となっている。 同月28日に運輸大臣から公団に対して、工事実施計画の指示及びJR東日本に対する事業認定が出されたので、公団とJR東日本は同日付けで田沢湖線・奥羽線の大改良及び譲渡・引渡し基本協定を締結した。総工事費は当初598億円とされ、公団直接施行の工事費は25.6億円、JR東日本への委託施行の工事費は572.4億円とされていた。そして、この公団に対する工事実施計画の指示の際には、「必要な総事業費は598億円とし、うち鉄道整備基金からの無利子貸付事業の対象事業費は490億円」とし、「残りの事業費108億円については、東日本旅客鉄道株式会社が最終的に負担する」という旨の通知が、別途、公団に出されている。
[21]鉄道公団が建設した鉄道施設を鉄道事業者に譲渡しようとするときには、運輸大臣が定める基準に従って計算した譲渡価額を、運輸大臣が指定した期間及び利率による割賦支払の方法により収受することとされており(日本鉄道建設公団法23条及び同法施行令9条)、鉄道公団独自で譲渡対価の回収方法を決定することは不可能である。
[22]ただし、運輸省は公式見解を出していないが、事業団の無利子貸付金制度は、常磐新線が最後の適用とも噂されており、仮にJR東日本が望んだとしても、事業団の助成対象事業となる可能性は低かったともいわれている。
[23]鉄道事業では、新線建設の場合を除けば、設備投資は売上の増加には結びつかないという特色がある。駅の施設をどんなに豪華にしても、車両を改良しても、乗客に対するサービス向上にはなるが、基本的に乗客数が増えるわけではない。したがって、新線建設を行わずに、減価償却費の範囲内で設備投資を行うということは、サービス向上に専念するということを意味しているのかもしれない。ただし、省エネ型の設備投資などを行えば、そのときは、売上高は増加しなくてもコスト削減にはつながる。
[24]表3-6を見ていると、資金調達的にはAB線が望ましいような印象を受けるが、問題点もある。実は、無償資金だけを使って建設するAB線は、補助金等を薄くばら撒いている限りは資金制約があってどうしても完成が遅くなるのである。そこでしびれを切らして、早期完成を目指そうとすると、建設費の財源として調達の容易な有償借入金を投入する必要が生じる。そこで、AB線であった鹿島線(香取・北鹿島間)と篠栗線の2路線については、国鉄からの要請により、1965(昭和40)年から借入金が投入された。借入部分の扱いは他のCD線並みの貸付条件に合わされたが、借入部分以外の部分の貸付後の扱いは他のAB線と同じ条件(当該部分に発生する減価償却費相当額を「補助金」として国から公団に交付)に合わされた。同じようにAB線として着手された呼子線(虹の松原・唐津間)については、AB線からCD線への変更措置を確認の上、1982(昭和57)年度に建設費の財源に借入金が投入された。完成後は、他のCD線と同一貸付条件で貸し付けられている(『日本鉄道建設公団三十年史』p.646)。
ドイツでは、1994年の鉄道改革(Bahnreform)により、旧東西ドイツの国鉄は統合の上、株式会社化されて、ドイツ鉄道株式会社(DBAG: Die Deutsche Bahnen Aktien Gesellschaft)が誕生し、民営化を目指したプロセスが始まった。鉄道改革前、旧東西ドイツの国鉄は自動車との競争で市場を失うなどして経営が悪化し、鉄道改革の際に、連邦政府が引き受けた東西ドイツ国鉄の有利子負債の額(1993年末)は660億マルク(1マルク=約74円換算で約4.9兆円)にも達する[25]。 ドイツの鉄道改革は、1987年の日本の国鉄分割民営化に大きな影響を受けて行われたといわれる。しかし同時に日本との相違点も存在し、特にドイツでは、新会社DBAGが旧国鉄債務を一切引き継いでいない点、連邦政府が鉱油税の引き上げ分を債務の利払いや地方線の赤字補填にあてるというように旧国鉄債務の返済計画と財源を具体的に定めてから鉄道改革に臨んでいる点が日本と比べて優れている[26]。
ドイツの鉄道改革に至るプロセスについては、既に堀(1994)、青木(1994)、桜井(1996)といった詳細な研究があるが、ここでは鉄道改革とその後の動きを別の角度からとらえることにしよう。ドイツの鉄道改革が、日本の国鉄分割民営化と同様に、膨大な国鉄赤字を背景にして行われたことは事実であるが、本稿では、少なくとも次の4点において、日本にはなかった政策的な伏線があったことを明らかにしたい。
まず第一に、1990年のドイツ統一の前後には、ドイツは鉄道に対する莫大な設備投資を必要とする状況に陥っていた。すなわち、
こうしたインフラ整備のための莫大な設備投資は、ただでさえ赤字の続く国鉄に負担できるものではなく、代わりに連邦政府が財政負担することが決められていた。
第二に、遠距離旅客、貨物については、もともと陸続きであるヨーロッパ全体での鉄道網の構想の中で経営形態が考えられてきていた。ヨーロッパ全体の鉄道網構想を睨んで、EU統合以前からEC指令で上下分離の方向性が打ち出されており、それに基づき、ドイツの鉄道改革では遠距離旅客、貨物のオペレーションを行う鉄道事業者がインフラ部分からは分離され、これらオペレーション担当の鉄道事業者への政府の助成は一切行われないことになった。
第三に、近距離旅客については、旧西ドイツで1960年代から地方交通における「道路から線路へ」の政策転換が行われ、その流れの中で、鉄道改革によって、近距離旅客鉄道を連邦政府から州政府へ移管することが行われた。したがって、近距離旅客鉄道については、今回の鉄道改革のプロセスの中でも、上下分離ではなく、むしろ地域としてまとまってインフラ部分と一体化して鉄道経営をしていこうという方向性が持続している。
第四に、日本の国鉄には公務員はいなかったが、西ドイツの国鉄では公務員が多数働いており、そのことが効率向上や競争力向上の足かせになっているという認識があった。日本の国鉄清算事業団にたとえられるドイツの連邦鉄道財産機構(BEV)は、旧ドイツ国鉄の経営の足を引っ張ってきた二つのマイナス要因: 巨額有利子負債と膨大な公務員を引き受けることを目的に設立されたが、鉄道改革の第二段階で負債返済の任を解かれた後も存続し、その結果、BEVはDBグループ (DBAGが分社化してできた会社のグループ)の福利厚生と公務員の人事・年金のための機関となり、国鉄清算事業団とは全く性格の異なるものとなった。
このように日本との違いは大きいものの、日本がドイツに学ぶべきことは多い。まず、ドイツが鉄道改革によってより鮮明に打ち出すことになった資金調達スキームは、日本と比較して大きな特徴がある。ドイツでは鉄道改革の第2段階を機に、鉄道設備への莫大な投資を、新線建設についてはすべて連邦政府の補助金によって賄い、改良工事については連邦政府からの無利子貸付金と鉄道事業者自身の内部留保によって賄うこととした。日本のように、鉄道建設の資金調達を安易に有利子負債に求めず、全額を補助金等で財政負担をする覚悟を決めたということは注目に値する。第1章でも見たように、かつて日本では、政府が国鉄の設備投資資金を国鉄自身に場当たり的に有利子で調達させたことによって、その後、負債が雪達磨式に増え、鉄道経営が構造的に破綻していったが、第2章で整理したように、その資金調達スキームは、現在の日本においても改まっているとは言いがたいからである。
そして、もう一つ日本がドイツに学ぶべきことは、政策の一貫性である。第2章でも示したように、そもそも日本では、同種の鉄道事業であっても、事業者によって補助金等の出し方が異なったり、建設の途中で補助金が凍結されたりと、政策の存在自体を疑いたくなるような場当たり的な行政が行われてきた。それに対して、ドイツでは、鉄道だけではなく道路も含めた一貫した交通政策や議論が鉄道改革前から存在していた[27]。しかし鉄道改革前には、そうしたいくつもの長い縦糸(=一貫した政策)が、国鉄という結び目で複雑に絡み合ってしまっていたのである。ドイツの1994年の鉄道改革は、その結び目を東西ドイツ国鉄を再編することで解きほぐし、それぞれの縦糸に政策としての一貫性を確保するための作業でもあったと考えると理解がしやすい。ケスタ・青木(2000, p.19)が主張するように、1990年代に実施された政策は、すべてそれまでに西ドイツ国鉄の改革案として議論されてきた内容であり、タイミングの問題で1994年になって一気に実施されたといってもよいものなのである。その結果として、ドイツでは、鉄道建設に莫大な設備投資資金を投入するための資金調達スキームが、鉄道改革を通して、よりシンプルなものに整理されたのである。ドイツの鉄道改革に比べれば、日本の国鉄分割民営化は国鉄の「清算」を意図したものであり、格段に簡単な作業だったはずだが、にもかかわらず、日本では国鉄の分割民営化後、資金調達スキームがかえって複雑になっており、対照的といえる。
それでは、まず最初に、ドイツの鉄道改革とは一体どのようなものであったのかを簡単に整理しておくことから始めよう。
西ドイツの国鉄、ドイツ連邦鉄道(DB: Deutsche Bundesbahn)の旅客輸送シェア(人キロ)は1950年には34.4%もあったが、その後、自動車にシェアを奪われ、1970年には8.4%、そして1990年に6.0%へと急速にシェアが低下した。貨物輸送シェア(トンキロ)についても同様に自動車にシェアを奪われて、1950年に55.3%、1970年に32.7%、1990年に20.5%と低下傾向が続いた(桜井, 1996, pp.132-133) [28]。
こうしたDBの地位低下の背景には、DBが公務員をたくさん抱えていた(公務員を最も多く抱えた役所だった)ために、自動車と競争できるようなサービスを提供できなかったこと。さらに、1960年代以降、地方での足の確保を優先した路線拡張が行われたものの、利益をあげるような投資は行われなかった結果、内部留保を確保できずにまた次の設備投資ができなくなるという悪循環が続いて、戦後の鉄道近代化が遅れたことが挙げられる[29]。
こうしてDBは発足以来一貫して赤字経営を続けてきた[30]。1973年以降は西ドイツ政府によるDBに対する利子補給措置があったにもかかわらず、累積債務額は1990年には440億マルク[31] (約3.3兆円[32])に増加していった(運輸省, 1996)。1980年代、旧西ドイツ政府の連邦鉄道への助成金は年間100億マルク(約7,400億円)以上にのぼり、連邦予算の3〜4%を占めていたといわれる(青木, 1994)。このような状況下にあって、1990年のドイツの統一で、さらに東ドイツ国鉄という重荷が増えることになったのである。
その東ドイツの国鉄、ドイツ帝国鉄道(DR: Deutsche Reichsbahn)は、一時、国内旅客輸送量の1/2、貨物輸送量の2/3のシェアを誇っていた(堀, 1994)。しかし、それは旧東ドイツ時代には自動車が入手困難で、さらに計画経済体制の下での一定の鉄道需要の保証があったために、鉄道依存度が高かったのである。1990年10月のドイツ統一を経て、自由経済体制へ移行すると、東ドイツ地区は経済危機により経済活動自体が低迷したために輸送需要が全般的に減少した上に、DRは自動車との競争にさらされて、市場シェアも急速に低下し、1991年のDRの輸送量は、旅客、貨物ともに1990年からほぼ半減し、43億マルク(約3,182億円)の欠損を出すに至った(運輸省, 1996)。
しかし、このような東西ドイツの国鉄の置かれた状況を理解するには、日本との違いに、さらなる注意が必要である。実は、表4-1にあるように、ドイツ統一によって、ドイツの国土面積は日本の国土面積とほぼ同じになった。ところが1990年の段階で、DBとDRの合計と、日本のJR各社の合計(旅客鉄道会社であるJR6社と日本貨物鉄道(JR貨物)の計7社の合計)を比較すると、表4-1のように、東西ドイツ国鉄の営業キロ数の合計は、JR各社の合計のほぼ2倍もあったのである。しかも、東西ドイツ国鉄の輸送量はJRと比較すると、旅客輸送人キロで25%しかなく、旅客の輸送量はJRよりも格段に少ないのである。貨物輸送トンキロではJRの3.8倍あり、東西ドイツ国鉄は、旅客輸送よりも貨物輸送が中心だったということになる。
表4-1. 1990年のドイツと日本の鉄道
ドイツ | 日本 | |
---|---|---|
面積(千km2) | 357 | 378 |
人口(百万人) | 79.1 | 123.6 |
人口密度(人/km2) | 220 | 330 |
鉄道 | DB+DR | JR* |
鉄道営業距離(km) | 40,989 | 20,175 |
旅客営業距離 | 33,480 | 20,175 |
貨物営業距離 | 39,892 | 10,136 |
複線以上区間 | 16,599 | 5,953 |
電化距離 | 14,718 | 9,601 |
路線密度(m/km2) | 115 | 53 |
職員数 | 462,235 | 192,000 |
キロ当たり職員数 | 11 | 10 |
鉄道旅客輸送人キロ(億) | 600 | 2,377 |
旅客輸送密度 | 5,041 | 32,279 |
鉄道貨物輸送トンキロ(億) | 1,013 | 267 |
貨物輸送密度 | 6,957 | 7,217 |
このことは、日本と比べて、ドイツの旅客鉄道が悪い条件に置かれていることを反映しているともいえる。日本では、本州の東京、名古屋、大阪に約6100万人、つまり日本の総人口の半分が居住しており、非常に人口が集中している状態で、旅客鉄道にとっては理想的ともいえるが、ドイツでは都市近郊における分散的な住宅建設が行われてきたために、大都市や人口の多い地域でさえ、人口集中度は日本より小さく、旅客鉄道には向かない構造になっていたのである(リンク, 1999)。その結果ドイツでは、都市圏でもDBの近距離旅客輸送の収入はコストの7割をカバーするにすぎず、それ以外の地方に至っては、DBの収入ではコストの1〜2割しかカバーしていなかったといわれる(青木, 1994)。
こうして、このままでは、DBおよびDRの債務は、1994年には700億マルク(約5.2兆円)に達し、さらにその後10年で3,800億マルク(約28兆円)以上に達するであろうという見込みの中で、鉄道改革[33]が実施されたのである(運輸省, 1996)。そこで、ドイツの鉄道改革のプロセスをDBAG自身の説明をベースに、堀(1994)、青木(1994)、桜井(1996)、住田(1998)、ケスタ・青木(2000)で肉付けしながら整理すると、次のようになる。
1990年10月のドイツ統一を前にして、1989年2月1日には、西ドイツ政府側がイニシアチブをとって、中立独立の委員会として連邦鉄道政府委員会(RKB: Regierungskommission Bundesbahn)の設置を決めている。RKBは1991年6月21日に中間報告書を、1991年12月21日に最終報告書を連邦交通大臣に提出している(桜井, 1996, p.224)。
そして、1993年12月にドイツの鉄道改革法案は成立し、基本法(憲法)と鉄道法が改正になった。それを受けて、翌1994年1月に鉄道改革の第一段階が始まり、旧西ドイツ連邦鉄道DBと旧東ドイツ帝国鉄道DR の統合が行われた。その順序は、まず1994年1月1日に特別財産[34]DBとDRを単一の特別財産、連邦鉄道財産(BEV: Bundeseisenbahnvermogens)に編入する。そして1月5日には、全額連邦政府出資のドイツ鉄道株式会社(DBAG: Die Deutsche Bahnen Aktien Gesellschaft)を登記して、BEVの企業分野を分離する。また旧国鉄がもっていた行政分野のうち、鉄道の監督・認可などの高権的任務を分離して連邦鉄道庁(EBA: Eisenbahn-Bundesamt)を設立する。したがって、連邦鉄道財産BEVには、DBAGとEBAに継承されない職員、債務、不動産が残ることになり、その管理を行うことが仕事となった。つまり、
DB+DR ⇒ BEV+EBA+DBAG
となったのである。
DBAG、EBA、BEVについて多少補足説明すると、まずDBAGは鉄道事業者である。その内部は、さらに通路部門と輸送部門に組織上の上下分離(organisational separation)が図られていた。通路部門は社会資本たる鉄道線路の維持管理という国家的な任務を与えられている。それに対して旅客輸送部門・貨物輸送部門は、それぞれプロフィット・センターとして機能することになった。
連邦交通省の外局として位置付けられている連邦鉄道庁(EBA)の主要な任務は、新しく建設されるものも含めて鉄道施設の監督および検査を行い、技術水準に達していることを保証することにある。またEBAはDBAGの線路の使用に関する第三者への免許の交付も担当している(ケスタ・青木, 2000)。鉄道建設における役割をより具体的に言えば、後述するように、連邦政府の補助金・無利子貸付金を配分し、新線建設・改良工事の施工管理を行う監督官庁であるといえる。
DBAGとEBAに継承されない職員、債務、不動産が残された連邦鉄道財産機構(BEV)は、1993年末で約660億マルク(約4.9兆円)の累積債務[35]と共に、DBAGの営業上不要な不動産等を継承することになった[36]。BEVが承継した過去債務は連邦政府が無制限の責任を負い、その償還財源としては、一般財政支出[37]のほかBEVの不動産の売却収入を当てることが計画されていた。
このためBEVは日本の国鉄清算事業団と類似した組織である(青木, 1994)といわれていたが、後で詳しく論じるように、公務員(Beamte)をすべて引き受けたという点で、大きな違いがある。事務職員・労務職員は直接DBAGに移行するが、公務員は全員がBEVに異動し、BEVからDBAGに出向する形をとる。この公務員の給与はBEVが支払い、DBAGはその給与の90%を負担することになる。公務員の年金や公務員以外の職員に対する付加年金もこのBEVが引き受け、最終的には連邦政府が負担することとなった(青木, 1994)。BEVはいずれ解散する運命にあり、「連邦の鉄道の合同と新編成に関する法律」(Gesetz zur Zusammenfuhrungund Neugliederung der Bundeseisenbahnen) [38]では、早ければ2004年までにBEVを解散させる権限が連邦政府に与えられている。したがって、2004年までには解散の是非の検討が行われるだろう。
1997年12月4日、1998年12月2日にそれぞれDBAGの取締役会が開かれ、第2段階を決定し、1999年1月1日に第2段階が始まった。第2段階では、DBAGは持株会社となり、事業部門を次の5社に分社化した。
これらの会社は現在「DBグループ」(DB (Deutsche Bahn) Gruppe: ドイツ鉄道グループ)と総称されている。当初、DBAGの旅客輸送部門を遠距離・近距離に分けるかどうかが問題になったが、結局、AとBに分けることになった。また、DBAGの通路部門が分かれたCとDは当初の計画では鉄道線路事業株式会社として一つの会社になるはずだったが、DBAGがCを分離させることを決めている。これらの株式会社の登記上は1999年7月1日から効力を発することになった。これら5社のうち、DB Netzはやや特殊な存在で、他の会社が株式を100%売却しても構わないのに対して、DB Netzは売却は49%までと決められている。
こうしてDBAGは1999年に、事業部門を5社に分社化して持株会社となったわけだが、この持株会社は2002年1月1日に解消することが一応予定されている。ただし、BEV解散とは異なり、DBAG解散に関する法律改正には全州の同意が必要になるので、解消の時期、仕方はまだ確定しているわけではない。
鉄道改革があったといっても、現在のドイツの旅客鉄道の体系は、旧西ドイツの国鉄DB (ドイツ連邦鉄道)時代から特に変わったというわけではない。DBあるいは鉄道改革後のDBAG、DB(ドイツ鉄道)グループを中心とした旅客鉄道の体系は、大まかには表4-2のように整理できる[39]。
表4-2. ドイツの旅客鉄道の体系
運営 | 特別 料金 | サービス内容 | |
---|---|---|---|
インターシティ エクスプレス (ICE: InterCity Express) | DB | 必要 | 1991年6月から営業を開始した最高時速280kmの「新幹線」。 ただし、ICE専用線以外では、IC/ECと同様に運行される。 |
インターシティ (IC: InterCity) | DB | 必要 | 国内の主要都市間を結ぶ特急。1〜2時間間隔で定時に各駅を 出発する。 |
オイロシティ (EC: EuroCity) | DB | 必要 | 国境を越えて運行される国際列車で、ドイツ国内ではインター シティと同様に扱われ、同じダイヤで運行される。 |
インターレギオ (IR: InterRegio) | DB | 必要 | インターシティ網の隙間を埋めて地域間を走る急行。およそ 2時間間隔で出発。 |
シュネルツーク (D: Schnellzyg) | DB | 必要 | 系統の一定化と車両の近代化とともにインターレギオに置き 換えられつつある。 |
シュタット エクスプレス (SE: Stadt Express) | DB | 不要 | 主要駅にのみ停車する快速。従来の快速アイルツーク(Eilzug) に置き換えて導入が進む。導入に当たって、始発・終着地を 規定して運行系統を一定にし、完全な1時間間隔の運行とした。 |
Sバーン (S-Bahn) | DB | 不要 | 旧国電のような都市鉄道で各駅停車が原則。レギオナルバーン (RB: Regional Bahn)はSバーン化が進んでいる。 |
Uバーン (U-Bahn) | 公営 | 基本的に地下鉄だが、都心部では地下、郊外部では専用軌道 (DB以外)で両者が一つの路線として運行されている場合がほとんど。 | |
路面電車 (Strasenbahn) | 公営 | 都心部のみ地下を走っている場合もあるが、この場合も地下鉄 には分類しない。 |
旧西ドイツでは、後述するように各主要都市圏には近距離旅客輸送を担当する交通事業者による運輸連合が設立されており、DBのシュタットエクスプレスやSバーンもそれに組み込まれてきた。そして、それら主要都市圏の間を結ぶ形で、DBのICE、IC/EC、インターレギオ、シュタットエクスプレスなどが、いずれも1ないし2時間間隔で運行されているのである[40]。
鉄道改革前から進行していたシュタットエクスプレス化、Sバーン化には、こうした等間隔運行の実現と同時に、列車の車体の質の向上という意味も込められていることには注意がいる。実は、このことが示唆しているように、ドイツでは、鉄道改革で上下分離がスタートする以前から、ICE、IC/EC、インターレギオ、シュタットエクスプレス、Sバーン等は商品名だったのであって[41]、路線名ではなかったのである。列車の車体の名称といった方が正確かもしれない。
例えば、ドイツの「新幹線」と呼ばれるICEは、日本の新幹線のように、在来線とは別に建設された新線を走っているとは限らない。もちろん新線を高速で走っている場合もあるが、第三世代のICEであるICE3が走ることが予定されているケルン=フランクフルト間に建設中の路線[42]は、ICE3専用線ではあるものの、路線自体には日本の「東海道新幹線」のような名前は付けられていない[43]。実は、現在もケルン=フランクフルト間のライン川沿いの路線(日本流に言えば在来線)をICEの「車体」が走っているが、IC/ECと同じ所要時間で運行されている。にもかわらず、車体がICEなのでICEと呼んでいて、運賃もIC/ECと比べて割高なのである。
このように旧西ドイツでは、鉄道改革のずっと以前から、路線とは独立した商品名が存在し、しかも主要都市圏における近距離旅客鉄道と遠距離旅客鉄道とは区別されて、それぞれ別の方向性で体系化が行われていた。さらに貨物輸送は、もちろんこれらとは体系が異なる。鉄道改革の第一段階、第二段階で新制度や分社化として顕在化したものは、鉄道改革によって突然出現したわけではないのである。そこで、このような鉄道の体系がどのように形成されてきたか、そしてそれが鉄道改革によってどのように変化してきたのかを整理してみよう。
西ドイツでは1960年代に議論があって、増え続ける自動車に対応して、必要となる道路を地方が作り続けていくことができないために、道路から線路へと交通の重心を移していくことが決められた。このとき1967年に「都市交通改善助成法」(GVFG)ができて、国税である鉱油税を引き上げ、その分を近距離交通の建設に当てることが決められた。この財源で、Sバーン、Uバーン、路面電車の建設費は60%が賄われ、残りの40%を州政府と地方自治体が分担することも同法に定められている。そして、例えばSバーンにするかUバーンにするかは、コスト計算を行って、有利な方を選択することにしたのである。
しかしその一方で、Sバーン路線を除くDBの近距離路線、つまり地方線は廃止が進んでいった。1970年〜1990年の累計では、旅客では5684km、貨物では3244kmが廃止されている。こうした赤字地方線を廃止し、重点を主要都市圏の人口稠密地域内での近距離旅客輸送とそれらの間を結ぶ遠距離旅客輸送に移すという考え方は1983年11月23日の連邦政府ガイドラインにより承認された経営戦略DB’90でも主張されている(桜井, 1996, pp.155-159)。それでも改革直前には、近距離旅客鉄道にかかるコストを100%とすると、収入は65%程度しかなかいような赤字状態に陥っていたともいわれる[45]。
主要都市圏の近距離旅客輸送の重視という点で、1967年のGVFGとほぼ同時期にスタートしたのが運輸連合である。運輸連合(Verkehrsverbund)とは、複数の自治体から構成される一定地域内の都市交通をより魅力的なものにするために、その地域に含まれる鉄道、バスの事業者が、共通運賃の設定、運行計画の調整、一部の補助金の鉄道事業者等への配分等を行う機構で、有限会社の形態をとっている。1966年以降、ハンブルク、ミュンヘン、フランクフルト[46]、シュツットガルト、ライン=ルール(ルール工業地帯)、ライン=ジーク(ボン、ケルン)、ニュルンベルク、ライン=ネッカー(マンハイム、ハイデルベルク)といった規模の大きい都市を中心とした都市圏で運輸連合が発足した(青木, 1994; 住田, 1998)。
運輸連合は、次のような特徴をもっている(土谷, 1997)
さらに、時刻表の編成については、統合等時間隔時刻表(ITF; Integraler Taktfahrplan)を導入し、すべての路線について、毎時同じ時分、例えば5分、20分、35分、50分に列車を運行するように統一することも進んでいる(ケスタ・青木, 2000, p.40)。運輸連合は、もともと西ドイツで発達してきたものだが、ドイツ統一後は、首都ベルリンでも1997年にベルリン運輸連合が設立されている(住田, 1998)。
運輸連合設立の動きは、ドイツの鉄道改革によってさらに加速した。鉄道改革にともなって、公共近距離旅客輸送の一部である「近距離鉄道旅客輸送」の運営責任が地方分権化され、国から州へと移管されたことで運輸連合が急増し、近距離旅客輸送の調整に関連する会社は、運輸共同体(Verkehrsgemainschaft)などを含めて、1997年6月現在までに59社設立されている(ケスタ・青木, 2000, p.38)。またフランクフルト(ヘッセン州)では、既にフランクフルト運輸連合が存在していたが、ヘッセン州の州都ビースバーデンを含む都市圏全体をサービスの対象とするように、ライン・マイン広域運輸連合へと広域化されている(青木, 1994)。
こうした1970年代における運輸連合制度の発達や、1980年代におけるSバーンの長距離路線からの分離に地方政府が協力したことは、DBを地域の交通計画に組み込むための策だったともいわれる(青木, 1994)。こうしてDBのSバーン、シュタットエクスプレスは運輸連合の中に組み込まれていった。従来、ドイツの鉄道改革の紹介では上下分離ばかりが強調されてきたが、実は、近距離に関しては、こうしたこれまでのドイツの交通政策の流れがあり、上下分離とは別の方向性が垣間見えるのである。
例えば、ベルリンのSバーンについては、DBAGの100%子会社として設立されたベルリンSバーン有限会社(S-Bahn Berlin GmbH)が、鉄道改革後の1995年1月1日から運営している(住田, 1998)。これは鉄道改革第二段階以降もDB Regioの子会社となり、上下分離せずに一体として経営されている。こうした措置はベルリンだけの例外措置ではない。ハンブルクでもハンブルクSバーン有限会社(S-Bahn Hamburg GmbH)が設立され、DB Regioの100%子会社となっている。DBAGとしては、Sバーンについては、線路・駅といったインフラ部分を分離せずに、一つの会社として経営する必要があると考えていて、DB Netzもその考えを共有している。このため、DB Regioは将来的にはこうした地域ごとに、上下一体化したSバーンの子会社を次々と分離・設立していく可能性がある。
1994年の鉄道改革により、ICEのような遠距離分野、そして貨物分野に対しては、一切助成はしないことになった。これに対して近距離分野への助成は続けられ、その責任は州政府に移管されることになった。こうした鉄道近距離旅客輸送の提供責任と財政責任を州や自治体などの地域団体に移管することは地域化と呼ばれ、ECの理事会(EEC)規則No.1893/91の提案に沿った内容でもある(桜井, 1996, p.245)。
ドイツの場合、こうしたECの動きも重要な要因である。遡れば、1958年1月1日発足のヨーロッパ経済共同体(EEC: European Economic Community)の設立条約によって、輸送サービスのための規則を制定することが規定された。ここで規則とは、拘束力をもち、すべての加盟国に適用されるものを指している。その後1967年7月1日に発足したヨーロッパ共同体(EC: European Community)の理事会(EEC)では、実際に、共通運輸施策を実現するための前提条件作りとして、1969年から次のような規則が制定されてきた(住田, 1998)。
実は、既に西ドイツではそれ以前の1961年から、政策的割引運賃が大幅な赤字を生み出しているとして、特別な算定基準なしに毎年1.2〜1.7億マルクが連邦政府から支払われており、1967年には算定基準を明確にして「社会政策的割引運賃による旅客輸送の経費補填のための政策拠出金」という名称になっていた。しかし、この拠出金は@EEC規則No. 1191/69によって、1970年と1971年には8.9億マルクまで増額され、1972年からは「鉄道近距離旅客輸送の補償」という名目になって、近距離旅客鉄道全体が補償の対象とされたのである。その額は、1981年で32.8億マルク、1991年で36.6億マルクにもなり、DBに対する連邦政府の助成総額のそれぞれ28%、31%を占めていた(青木, 1994)。
しかし、1994年の鉄道改革第一段階では、運輸連合における赤字・欠損の補填の仕方は複雑なままであった。Sバーン等については連邦政府が赤字補填をし、Uバーン、路面電車といった公営交通企業については郡・市町村が赤字補填をし、運輸連合導入によって発生するコストについては州政府が負担することになっていた(青木, 1994)。
1996年1月1日に近距離旅客鉄道の運営責任が、国から州に移管されてから、ある意味で赤字補填の仕方はシンプルになった。移管にともない、赤字補填の責任が連邦政府から州政府に移り、州政府とDBAGの契約によって、Sバーンの営業費用に対する運賃収入の不足分に対して、州政府が助成することになった[47]。
ただし、運営責任が連邦政府から州政府に移管されたといっても、結局は連邦政府が財源のバックアップしており、次の二つの財源が用意された(青木, 1994)。
その額は1999年で年間120億マルク程度になっている[48]。
また州政府への移管により、近距離旅客鉄道の赤字路線を廃止するかどうかの最終決定権も地方に移ったことになる。仮にオペレーションの会社が赤字で撤退してしまった場合(既にこうしたケースはある)、入札によって新たなオペレーションの会社を募ることになるが、それでも見つからなかった場合には、路線廃止ということも想定されている。
近距離旅客輸送とは対照的に、1994年の鉄道改革以来、遠距離旅客と貨物に対しては、一切赤字・欠損補填を行わないことになった。しかも、上下分離が行われたのである。こうした鉄道改革時の方向性は、ヨーロッパ全体の鉄道網構想の中で考えられてきたものである。
既に近距離旅客鉄道のところで、ヨーロッパ共同体(EC)で制定した規則によって、DBへの補助の形式と額が変わったことを述べたが、前述の連邦鉄道政府委員会(RKB)の最終報告書(1991年12月21日)には「委員会は、改革案がECの交通政策の展開や各種の指令と合致するようになることを重視した」と述べられている(桜井, 1996, p.231)。この改革案は、同年6月20日発表のEC理事会(EEC)規則No.1893/91[49]、同年7月29日発表のEC理事会指令(91/440/EEC)と比較すると、中間報告書の発表時期が1991年6月21日とほぼ同時というだけではなく、内容的にもほぼ同一で、ECの理事会指令・規則は改革案に根拠を与えたといわれる(桜井, 1996, pp.224-226)。
特に後者、「共同体の鉄道の発展に関する閣僚理事会指令」(91/440/EEC)は鉄道に関する指令[50]で最も重要なものだといわれ、その指令の中では、
が規定されている(住田, 1998)。
このうち、2でいう鉄道運送事業と鉄道線路事業の経営の分離は、日本の「鉄道事業法」に規定する第二種鉄道事業と第三種鉄道事業のような概念に相当するものの分離を意味していた(住田, 1998)。また経営を分離する方法として、会計のみの分離(会計分離; separation of accounts)、同一鉄道事業者内における組織の分離(組織分離; organizational separation)、鉄道事業経営自体を別々の鉄道事業者に分ける分離(制度分離; institutional separation)が提唱され、会計分離は必ずしなければならないとされていた(堀, 1996; 住田, 1998)。会計分離とは、鉄道企業会計を輸送部門と通路部門の2部門の会計単位に区分して示すもので、DBにおいては、経営改革の試みの一つとして、既に1980年以降の『営業報告書』で、区分会計(Trennungsrechnung)として試験的に採用されていた(桜井, 1996, p.153; 堀, 1996)。
交通における上下分離は、藤井(1989)によれば、道路や航空、海運などのように通路施設の建設とその利用が分離されることを指している。ECでは、インフラ管理と輸送事業の分離(separation between infrastructure management and transport operation)とも呼ばれる(桜井, 1996, pp.38-39)。そしてドイツでは、上下分離とは、鉄道線路を保有し、その維持管理を行う「通路主体」と鉄道輸送事業のみを専業とする「輸送主体」とに鉄道事業者を分離することをいう。
実は西ドイツでは、かなり早い段階から上下分離に関連した議論が繰り返されてきた。鉄道の通路費負担が過重であるという議論や交通機関間の通路費負担の公平化を求める議論は、1961年の交通改革(Verkehrsreform)や1967年にLeber連邦交通大臣が発表したレーバー・プランでも既に行われていた(ケスタ・青木, 2000, pp.15-17)。さらに、1979年には連邦政府が線路(Fahrweg)と列車運行(Betrieb)の分離形態についての検討結果を報告し、包括的な法律改正の必要から実施は困難としたものの、既に触れたようにDB自身が1980年以降の『営業報告書』で3領域に分けた区分会計で損益計算を行い、企業経済的領域では利益をあげていることを示し、他方、国家的領域(通路)と公共経済的領域(公共サービス義務)については、連邦政府や地方自治体による完全な補償を求めたのである(ケスタ・青木, 2000, p.19)。
しかし、鉄道改革の段階で打ち出された遠距離旅客と貨物についての上下分離は、さらにヨーロッパ全体の鉄道網構想が背景にあったことも忘れてはならない。すなわち、上下分離は当該通路に対する所有権ないし支配権を輸送主体から移転することになるので、線路のユーザーからは利用度に応じた線路使用料を徴収することで、結果的には、法的に第三者たる事業者にも線路を開放し、当該線路における鉄道輸送事業への参入を認めるオープン・ネットワーク方式へとつながる。こうすることで、外国籍の鉄道事業者であっても、当該国において営業活動が可能になるのである(堀, 1994; 1996)。これは、より現実的には、ヨーロッパ全体としての鉄道輸送網、特に高速鉄道網を構想しての政策だと考えられる。事実、上下分離を打ち出した前述の「共同体の鉄道の発展に関する閣僚理事会指令」(91/440/EEC)は1991年7月に出されたが、その前月1991年6月にはドイツでICEの営業運転が開始されている[51]。そしてその半年前の1990年12月には「ECのヨーロッパ高速鉄道網計画」がEC閣僚理事会で承認されている。つまり、そうした機運が熟した時期にEC指令が規定されているのである。
その後、1993年11月1日にマーストリヒト条約が発効して、ECがヨーロッパ連合EU (European Union)となり、1995年にはオーストリア、フィンランド、スウェーデンが加わり加盟国が増えて15カ国体制になることから、前述の高速鉄道網計画には検討修正が加えられ、1995年1月には「ヨーロッパ高速鉄道網計画」がまとまっている。そこでは2010年を目標年次として、12,500kmの高速新線の建設(最高時速250km以上)、14,000kmの在来線の改良(最高時速200km以上)、2,500kmの相互連絡線の建設または改良がうたわれている(住田, 1998)。
しかし、いかにEC指令があったとはいえ、そして、以前よりヨーロッパの国々の間で、将来は鉄道を一緒にやろうという話があったとはいえ、ドイツが上下分離を行い、DB Netzが使用料を徴収するようになったことに対しては、他の国の国鉄から批判が出ているともいわれる。EC指令はガイドラインというよりもベーシック・ラインとでも呼ぶべき程度のものなので、さらなる合意を求めて、1999年現在、ブリュッセルの委員会で線路の使用料に関する検討が始まっている[52]。しかし国によって鉄道の経営内容が異なり、民営化のレベルも異なり、さらにEU統合で各国の負債額を減らすために、鉄道への助成を削減しなくてはならないなど、EU全体での上下分離をめぐってはまだまだ解決すべき問題が多い。
こうした高速鉄道網計画のように明るさの見える旅客鉄道に比べて、貨物は鉄道事業者にとって悩みの種である[53]。しかし、鉄道の国際貨物輸送量は、1975年の120億トンキロから、1985年には165億トンキロ、1990年には183億トンキロと増加している(桜井, 1996, p.138)。そこで問題になるのが、料金制度である。貨物については、EUでは道路から線路へという流れでは合意ができているものの、国別にそれぞれ発達したので、料金制度がばらばらのままである。このことは遠距離旅客についても同様ではあるが、それほど深刻ではない。なぜなら、ヨーロッパを縦断するような遠距離旅客というのは、路線としては存在していても、実際には航空路線があるので、鉄道路線の端から端までを一人の乗客がずっと乗り続けることはほとんどないからである。しかし、貨物の場合にはそれがありうる。そこでドイツ政府は、貨物についてはEU全体で1社として、一つのタリフでEU全体の貨物輸送を行うことを提案している[54]。
連邦鉄道財産(BEV)については、従来、日本の国鉄清算事業団との対比で、負債の処理が強調されてきた。事実、BEV発足当初は、負債を年々返済するのがBEVの仕事になっていた。西ドイツ国鉄DBには公債を発行して作った莫大な有利子負債があり[55]、1994年の鉄道改革の際、BEVが引き継いだ負債の総額は660億マルク、その支払利息は年間50億マルクにもなっていたのである。しかし、不動産を売却することで負債を返済するというアイデアは非現実的であった。例えば1998年のBEVの総収入250億マルクのうち、不動産売却による収入は、たった14億マルクしかない。これでは、その年の支払利息50億マルクを払うこともできない。
さらに1994年、1995年とBEVは単独で200億マルクを銀行借入金として調達したものの、連邦政府が借り入れるよりもBEVが単独で借り入れる方が金利が高く、会計検査院のアドバイスもあって[56]、1996年、1997年は連邦政府と共同で借り入れることになった。しかし不動産売却収入程度では焼け石に水で、返済は難しく、負債の額は増え続け、1998年末で780億マルクに膨らんでいた。こうして鉄道改革の第二段階で、BEVは負債返済の任を解かれ、負債はBEVから連邦政府に移されたのである。
それでは、BEVの役割は終わったのであろうか。実は、重要な役割が残っていた。鉄道事業を公務員法(offentlichen Dienstrechts)の制約から解放して、より効率的でより競争力のある鉄道にして、鉄道の交通需要を増やすことである[57]。実は、鉄道改革前、DB職員の身分には、公務員(Beamte)と事務職員・労務職員(Arbeiter)の2種類があった[58]。鉄道改革直前の1993年末でのDBの職員数は21万7725人だったが、そのうち実に12万4447人、57.2%が公務員だったのである(桜井, 1996, p.227)。これは、事務職員・労務職員と比べて、公務員の方が高級な仕事をしていたというわけではなく、歴史的な経緯から、例えば貨物輸送などでストライキ権のない公務員を配置する必要のあったポジションには公務員が採用されたのである[59]。
BEVは1994年1月1日に約11万5,000人の公務員に対する給与支払と、24万人以上の年金受給者に対する年金給付を引き継いで発足している[60]。これは、その直後にDBAGが分離設立された後でも変わらない。BEVで引き取った公務員は所属がBEVであるが、実際にはDBAG(1999年以降はDBグループ)で働いている[61]。ただし公務員を新規に採用することは、もはや行われない。鉄道改革前までに採用してしまった公務員だけがBEV およびDBAG、DBグループに存在することになる。公務員の昇格等はDBAGから提出された資料に基づいてBEVの人事部(正式名称は「第一部(Abteilung 1)」)が決めている。公務員の給与体系は連邦政府の公務員と同じである。公務員の給与はBEVから支払われるが、そのうち90%はDBAGがBEVに支払っている。すなわち、DBAGは10%安く公務員を雇っていることになる。
BEVから公務員へ支払われる給与の年間総額は、1998年で約50億マルクになる。さらに1998年には、退職した公務員約24万3000人に約80億マルクの年金が、遺族には約20億マルクの年金がBEVから支払われている。こうした公務員関係の支出は莫大である。1998年は鉄道改革第二段階直前で、まだ有利子負債を抱えていたが、実は、支払利息は約50億マルクで、偶然にも公務員への支払給与額とほぼ同額、BEVの総支出約250億マルクのうち2割程度しかなかった。残り8割は公務員の人件費と年金等に当てられていたのである。
1998年末でも公務員は7万1008人いて、DBAGの総従業員25万2468人[62]の28.1%を占めている。公務員の採用は、鉄道改革の前年1993年まで行われていたので、うち約5万人はまだ50歳以下である。西ドイツ国鉄DBはこのように多くの公務員を抱えていたために採算性、効率性の点で問題[63]があったといわれ、その公務員の受け皿としてもBEVが作られたのである。
BEV自身によっても、BEVは公務員が獲得した権利を公務員に対して保証する機関だとされている[64]。鉄道改革の第二段階で負債返済の任を解かれたことで、こうした公務員対策としてのBEVの存在がより浮き彫りになったともいえる。事実、BEVに最後まで残る仕事は、公務員の人事の仕事である。BEV解散を検討することになっている2004年には公務員は4万5000人程度になっているだろう。2036年には最後の公務員が退職し、2060年までには鉄道改革の関係者がすべて退職することになる。しかし、それでも福利厚生関係の事業や年金は継続させなくてはならない。そしてBEVが解散した後も、旧DBとDRの福利厚生を継続させる仕組み作りをすることが、現在のBEVの重要な役割である。例えば、DBグループ全体の福利厚生[65]については、DBAGの資金で財団法人が設立され、BEVがその管理を担当している。また、DBグループの約13万戸の社宅を所有管理している住宅会社を、BEVは18社もっているが[66]、売却を考えている。あるいは従業員のために石炭(旧東独側が多い)・石油といった燃料の安価な供給も行っており、これは34万人のうち7万人(公務員ばかりではない)が利用しているが、これもできれば独立させて売却したいとBEVは考えている。つまりBEVとしては、福利厚生関係の仕事は組織として独立させて、徐々に売却していく方針なのである[67]。こうすることで、BEV解散後も、福利厚生のサービスを続けることができる。
鉄道改革の際にBEVが分与された不動産のうち、鉄道事業に必要のない不動産[68]は鉄道不動産マネジメント有限会社(Eisenbahnimmobilien Management GmbH)によって商業開発が行われる。これは必ずしも売却を意味していない。むしろ再開発により付加価値を付けて、賃貸に出すことが中心である[69]。こうした再開発によって確保される収益は、将来的にはBEVが負担することになっている退職した公務員の年金に当てられることが予定されている。BEV解散後も、DBグループの福利厚生関係の事業や年金が継続できるように、現在BEVの事業は整理・再編・独立が図られており、そのための財源として承継資産の使い方が考えられている。
鉄道改革後の5年間で、DBAGは従業員数のほぼ1/4にあたる約8万人の削減に成功しているが、これは解雇によるものではなく、技術革新により車庫の省力化を図ったり、職務・組織の再編成によって余った人員の早期希望退職を募ったり、いわゆる自然減によって減ったものだとされている。このことで、1998年の従業員1人当たりの旅客トンkmで見た生産性は、鉄道改革前(1993年)の94.1%増と、ほぼ倍になっている。
しかし、確かに従業員数の削減により利益が出るようになったが、ここで注目すべきは、その投資額が巨額なことである。戦後40年にわたって、鉄道近代化のための投資を怠ってきたつけは重いのである。表4-3でもわかるように、1998年のDBAGの利益は総売上高の約1%になるが、総投資額は総売上高の約半分にもなっている[70]。鉄道改革以降、毎年の総投資額はほぼ140〜150億マルクで推移している。
表4-3. 鉄道改革後のDBAGの経営指標 (金額の単位は百万マルク)
1994年 | 1995年 | 1996年 | 1997年 | 1998年 | |
---|---|---|---|---|---|
総売上高 | 28,933 | 29,824 | 30,221 | 30,466 | 30,018 |
税引前利益 | 491 | 553 | 721 | 359 | 394 |
総投資額 | 13,942 | 14,334 | 15,199 | 13,957 | 14,982 |
純投資額* | 10,822 | 9,988 | 9,889 | 12,172 | 5,946 |
税引き前キャッシュ・フロー | 2,888 | 2,826 | 3,475 | 3,585 | 3,882 |
従業員数(年末)(人) | 331,101 | 312,579 | 228,768 | 268,273 | 252,468 |
こうした巨額投資の財源は、DBAGの内部留保だけで賄えるわけではない。ドイツの憲法である基本法の87 e条に、鉄道建設は連邦政府が補助すると書いてあるほどで、法律に基づいて連邦政府・州政府・地方自治体が建設補助金、そして無利子貸付金を出している。
表4-3で1997年のDBAGの総投資額はほぼ140億マルクになるが、そのうち、現行路線の維持、現行区間の拡充、新区間の建設、車庫の近代化等の合理化後などといった第2段階後はDB Netz AGが管轄することになったような部分の投資額は86億マルクになる。そのうち連邦政府からの無利子貸付金が41億マルク、連邦政府と州政府からの補助金が25億マルクの合計66億マルク。第三者機関から9億マルク、残りの11億マルクがDBAGの内部留保ということになる[71]。
そのうち連邦政府の関係する主な補助金、無利子貸付金については、連邦交通省、EBA、DBAGは、いずれもGVFG、DBGrG、BSchwAGと、その根拠法の略称で呼んでいる。
既に述べたように、ドイツでは1960年代に議論があって、増え続ける自動車に対応して、必要となる道路を地方が作り続けていくことができないために、道路から線路へと交通の重心を移していくことが決められた。1971年に「都市交通改善助成法」(GVFG: Gemeindeverkerkehrsfinanzierungsgesetz)ができて、国税である鉱油税を引き上げ、その分を近距離交通の建設財源とすることが決められた。1999年現在、1リットル当たり5.4ペニヒ(=0.054マルク)が財源となっている[72]。
具体的な1998年の数字では、GVFGの財源は32億8000万マルクである。そこから表4-4に示されるように、まず調査および開発に620万マルクが引かれる。残りの32億7380万マルクについて、旧西ドイツ側の諸州の分と旧東ドイツ側の諸州の分とにまず分けられる。さらにそのそれぞれについて、20%を連邦政府のプログラム(Bundesprogramm)に、80%を州政府のプログラム(Landerprogramm)に当てられることになっている。
表4-4. GVFGによる連邦財政支援(1998年)
この建設財源で、Sバーン、Uバーン、路面電車の建設費は60%が賄われ、残りの40%を州政府と地方自治体が分担することも同法に定められている。例えばベルリン運輸連合内では、Sバーン、Uバーンの新線建設の建設費は、国が60%、ベルリン市が40%を分担することになっている。シュツットガルト運輸連合内のSバーンの新線建設でも、国が60%、残りは州が28〜34%(ただし28%が最も多い)、郡が12〜6%(同12%)となっている(住田, 1998) [73]。そして、SバーンにするかUバーンにするかは、コスト計算を行って、有利な方が選択される。
「ドイツ鉄道株式会社の設立に関する法律」(Gesetz uber die Grundung einer Deutsche Bahn Aktiengesellschaft)は1993年12月27日に制定された鉄道改革関連法の中の一つである。この法律はドイツでは略式に「ドイツ鉄道株式会社設立法」(DBGrG: Deutsche Bahn Grundungsgesetz)とも呼ばれ、これには公務員の処遇や鉄道改革までに累積した負債の扱いについて定めているとともに、債務の内訳の一つとして、旧東ドイツ地区の鉄道施設を旧西ドイツ地区の水準に引き上げるために新たな施設等への必要な投資(1994〜2002年に330億マルクを上限としている)等を助成することとし、国の一般財源から充当することとされている。法律の中に金額が明記されているのはこのDBGrGだけである。
「連邦の鉄道通路の拡張に関する法律」(Gesetz uber den Ausbau der Schienenwege des Bundes)も1993年11月15日に制定された鉄道改革関連法の一つである。この法律は、ドイツでは略式に「連邦鉄道路線拡張法」(BSchwAG: Bundesschienenwegeausbaugesetz)とも呼ばれ、幹線鉄道の整備の範囲として具体的な路線のリストを挙げて、さらに鉄道通路の建設、整備および更新投資に対して、連邦政府が予算の範囲内で無利子貸付金または補助金を出すことが定められている。現在、年間約90億マルクほどになっている。
以上の三つの法律GVFG、DBGrG、BschwAGが主要な財源に対応しているが、この他にも、DBAGが挙げた財源は三つあるので一応列挙だけはしておく。
BSchwAGに基づく補助金と無利子貸付金の使い方としては、当初、改良工事については100%無利子貸付金で賄い、新線建設については、無利子貸付金と補助金の割合を連邦政府と鉄道事業者が協議して決めることにしていたので、新線建設のプロジェクトごとに無利子貸付金と補助金の割合が異なることとなった。より正確に言えば、この割合は区間ごとに結ばれる契約によって異なっていた。例えば、A市とC市を結ぶ比較的短い区間の新線建設工事の契約例では、総額1億2440万マルクの投資になるが、そのうち連邦政府から1億1400万マルクが連邦政府から出されることになっており、その財源が表4-5のように示される[74]。
表4-5. 鉄道改革第1段階での新線建設の財政援助の例 (金額の単位: 百万マルク)
内訳 | 金額 | |
---|---|---|
建設と土地買収 | BSchwAGに基づいた無利子貸付金(a) | 30 |
BSchwAGに基づいた補助金 | 20 | |
DBGrGに基づいた補助金 | 50 | |
暫定的に財政援助される額の合計* | 100 | |
計画および管理の費用(b) | 14 | |
総額 | 114 |
契約書にはこのような具体的な費用の分担金額も記載されている。こうした契約は、鉄道改革後、鉄道の建設、改良工事は連邦政府(正確には、連邦交通省、連邦財務省)とDBAGとの間での契約の形をとって行われる。第二段階以降は、DBAGの代わりに、DB Netz AGとDB Station & Service AGが契約をすることになる。 契約によって補助金や無利子貸付金の割合が異なるので、例えば、新線建設の路線リストの中に挙げられていたケルン=フランクフルト間のICE専用線は、2001年末には完成、2002年5月開業予定だが、需要が十分に見込まれることから、建設費用を全額で77.5億マルクと最初に決め、そのうち67.5億マルクを連邦政府の無利子貸付金、10億マルクを連邦政府の補助金で賄うこととされている。実際に工事をしてこの額をオーバーした場合には、その差額はDBAG(第二段階からはDB Netz)が負担することになっている[75]。
ただし、この方式は例外的であり、結果的にDB Netz側に過大な負担を強いることになると考えられている[76]。このような1994年の鉄道改革からの経験と交渉及び妥協の結果として、1998年から次のように変更になった。
無利子貸付金は、鉄道事業者が開業後、減価償却費相当分を国に返済することになっている[78]。第2段階でDB Netzが分離されたことにより、新線はDB Netz の所有となり、DB Netzが線路使用料(1km当たり)を徴収することになる。この使用料の額は、減価償却費に総コスト(=人件費、金利を含むDB Netzの諸経費)を加えた額になるので、この使用料の中の減価償却費分が無利子貸付金の返済に当てられ、EBAに返されることになる。
それでは、ドイツではどのようなプロセスで新線建設が決定されるのであろうか。西ドイツにおいては、第二次世界大戦で荒れた国土の復興を図るために、連邦交通路計画がたびたび策定された。飽和状態となった道路から線路へという連邦政府の政策もあり、新線の建設場所を連邦政府がリストアップしてきたのである。
ドイツ統一後の初の全国的な計画は、1992年7月15日に「鉄道構造改革のための基本原則の決定」と同時に閣議決定された「連邦交通路計画1992」である。これは1990年に制定されるはずであった「連邦交通路計画」がドイツ統一による大幅見直しが必要になったために遅れたもので[79]、1993年秋に連邦議会で決議された。「連邦交通路計画1992」では、連邦交通路計画史上初めて鉄道(DB+DR)への投資予定総額が連邦遠距離道路への投資予定総額を超えている(桜井, 1996, p.237; ケスタ・青木, 2000, p.61)。この計画を実施するために、前述の「連邦鉄道路線拡張法」(BSchwAG)も鉄道改革時(1993年11月)に制定されたといわれ(住田, 1998)、BSchwAGには「連邦交通路計画1992」のリストのうち、さらに確実な計画路線のリストが含まれている。
リストに挙げられた計画路線には連邦政府が必要度に応じて段階をつけてあったが、もともと「連邦交通路計画1992」のリストは今後20年以内に建設すべき路線のリストであり、その根拠が弱く、5年ごとに連邦政府が必要度の見直しと多少の変更を行っていくことが決められている。見直しの内容はいくつかあるが、まずコスト計算の基礎が古くなるのでその更新を行う。次に利用度の見直しで、これはコスト計算に比べて難しい。一般には開業後時間をかけないと利用度は上がらないからである。また利用度は料金の設定によって影響を受ける可能性があるので、料金設定で色々なシナリオを考える。それに加えて、雇用増加などの地域への便益や環境破壊などの検討[80]、DBAGの経営に対する影響の検討[81]が必要になる。
例えば、2002年開業予定のケルン=フランクフルト間のICE専用線については、周辺の州政府が、近距離路線をケルンやフランクフルトに乗り入れることを検討しており、十分な利用が見込まれている。しかも、ケルン=フランクフルト間の航空路線をもっているルフトハンザ航空は、この路線が赤字路線なので、今までの半分の時間50分で結ぶことができるICE専用線開業後は撤退する予定で、ケルン=フランクフルト間の在来線とICE専用線を合わせた乗客数は増加が見込まれる。列車当たりの利用者が少なかろうが、使用料は列車の本数で決まるので、DB Netz は昼間の1時間当たり上下それぞれ5本運行できれば成功だと考えている[82]。
こうして必要度のついた路線リストは存在するが、どこの路線を着工するかは、1994年の鉄道改革以降、連邦政府と鉄道事業者との間の交渉によって決められるようになった。法律上は、どの路線を着工するかはDB Netzが決定できることになっていて、連邦政府がDB Netzに強制力をもっているわけではない。リストの中でどこの路線を着工するかは、EBAとDBAG(1999年1月からはDB Netz)との間で交渉して決めるのである。資金が不足する場合には、交渉の過程で州政府に補助金を求めた例もあった[83]。
こうした交渉を経て、工事契約が結ばれるわけだが、第二段階以降は大蔵省、連邦交通省、DB Netz、DB Station & Serviceの四者間の契約になっている。工事契約の中には、目的(場所、新線建設か改良工事か)、予算見積、連邦政府の負担、完成・開業時期などが明記されている。ただし、この契約では、100%全部を定めているわけではないので、新線建設については[84]、区間別の計画をEBAに提出して、EBAがプロジェクト別に検査することになる[85]。そのプロセスは、
当初計画していた建設コストについては100%支給するが、当然、工事の過程の中で建設費が膨らむケースも出てくる。そうした場合EBAは、建設費がオーバーする分が適切かどうか検討する[86]。こうした手順を踏むことで、これまでのところ、当所見積もりをオーバーしたケースも含めて、実績として100%補助金で賄っている。しかし、もしもそれでも補えないほどに建設費がオーバーしたときには、工事期間を延ばすことや、新しい建設計画の着工を凍結することなどが検討されるという[87]。
一般に欧州の鉄道は日本と比較して絶対需要に乏しく、鉄道事業者が通路まで保有しての経営は著しく困難であるといわれる。そこで、上下分離によって、鉄道事業者が経営上の最大負担となっていた鉄道線路施設の保有管理責任から解放され、輸送事業にのみ専業化し、企業性を最大限に発揮することは、輸送主体にとっては望ましいこととされる(堀, 1994; 1996)。しかし、通路費を押し付けられた通路主体はどうなるのだろうか。
ドイツ経済研究所が1987年について行った総合的な通路費用計算によれば、その当時でも、収入(鉄道営業収入と連邦政府の補償)は通路費をカバーするのには十分でなかったという。この状態は、貨物輸送においてDBAGの販売量が低下してきたことで、さらに悪化している(リンク, 1999)。
鉄道改革後、DBAGの通路部門及び第二段階以降のDB Netzが経営的に安定しているのは、1994年1月1日の鉄道改革の際の資産評価の大幅切り下げで、減価償却費が大幅に減少したおかげである。当時、DB+DRで有形固定資産が992億マルクだったものを、DBAGに253億マルクとBEVに32億マルクの計285億マルクに、なんと707億マルク71.3%も減額してしまった(桜井, 1996, p.279)。そのおかげで、表面的には経営が安定していられるわけである。しかし、減価償却費の大幅な減少によって短期的には利益が出るかもしれないが、長期的にはメンテナンス等の更新のための設備投資を抑制してしまうことになるのではないだろうか[88]。
さらに、一般に通路主体が建設済みの鉄道の維持管理だけに当たっている場合には問題はないが、ドイツの場合には、オペレーションをしないDB NetzがICE専用線のような新線建設も担当することになる。赤字路線を次々と作り続けた日本鉄道建設公団のような存在にならないのか心配ではある。公団も設立当初は、線路を保有して、それを貸し付けることを考えていたのである。しかしオペレーションをしないとなると、建設費圧縮のインセンティブは少なくなる。ドイツの場合、救いは有利子資金を使っていないという点だが、それでも政治の力で採算を無視した路線の鉄道建設を防げないのではないだろうか[89]。
EU統合で、各国の道路、鉄道の経営形態の違いも問題になっている。例えば、ドイツの列車がフランスに入ると、ドイツの列車でもフランスの列車として扱われる。しかし、自動車の場合には、国境を越えるときにパスポートを出すだけで、ドイツの自動車はあくまでもドイツの自動車としてヨーロッパ中を走り回ることになる。いまやドイツ全体を走っているトラックの30〜40%は外国のトラックだともいわれる[90]。ドイツでは、アウトバーンの利用は原則無料だが、アウトバーンにかかる費用のために鉱油税が使われており、そのためドイツ国内で販売されているガソリン等は他の国に比べて、割高になっている。外国車はドイツ国境のすぐ外側でガソリン等を給油してアウトバーンに入ってくるために、フリーライダーと化しているが、かといって、他の国では、道路を会社が作っている例もあって、無料化は難しい[91]。道路貨物輸送(トラック輸送)の場合、ドイツでは1993年6月にカボタージュ[92]規制が撤廃されており、既に他のEC加盟国よりも高目の鉱油税(桜井, 1996, pp.200-202)がさらに高くなれば、ドイツのトラック輸送業者に不公平になるかもしれない。
さらに、航空路線との関係も重要である[93]。ドイツ国内の航空路線を鉄道に置き換えていこうという流れも見られる。ドイツの国内航空路線は、コストが高く、価格が低く抑えられているために赤字となっている。そのため、これを抱えているルフトハンザ航空も協力的である。例えば、フランクフルト空港には、これまでも地下にSバーンの駅はあったが、1999年5月に、地上にICEやIC/ECといった遠距離旅客路線用の駅が開業した。このように、交通手段の間での競争と協調が、ますます重要になってくると思われる[94]。
[25]ただし鉄道改革の際に、連邦政府が引き受けた東西ドイツ国鉄の有利子負債の額(1993年末)については、数字に曖昧さが残っている。ここではBEVでのインタビューで確認した数字660億マルクにしてあり、日本の運輸省の『運輸経済年次報告』(1996)でも660億マルク(p.83)としている。ところがBEVのパンフレット「鉄道改革の基礎」(Fundamente zur Bahnreform, 鉄道改革の初期に作られたと思われる)では670億マルクとされており、連邦交通省でのインタビューでも670億マルクとされていた。この他、704億マルクで公表値680億マルクという説(桜井, 1996, p.281)もあり、今回のDBAGでのインタビューでも700億マルクという数字が挙げられていた。
[26]『朝日新聞』とのインタビュー記事(1994年2月11日付)で、当時のDBAGのHeinz Durr会長は、ドイツの鉄道改革は日本の国鉄民営化の成功に影響を受けて行われたが、上下分離やここに挙げたような債務の承継と償還の方法などで相違があると指摘している。
[27]ドイツでのインタビュー調査において、鉄道改革に至る戦後のドイツの鉄道事情が、過去の事件や成り行きの集積としてではなく、それぞれの長期的な政策として語られていたことは新鮮な驚きであった。
[28]ただし、シェアは低下しても、輸送実績が増加していたことには注意がいる。旅客輸送は1960年の400億人キロ(シェアは16%、以下同様)から1992年には460億人キロ(6%)へ、貨物輸送は1960年の530億キロトン(37%)から1992年には560億キロトン(18%)に増加している(リンク, 1999)。
[29]これらはDBAG側の主張である。特に、近代化が遅れた原因について、政治の影響でミス・マネジメントが行われ、運賃が低く抑えられていたために、投資をするだけの内部留保が確保できなかっただけではなく、負債も増えていったのだとDBAGは説明している。DBAGは、ある程度の運賃値上げは経営上必要だと判断しているようだった。運賃を上げると直後は利用が減少するが、回復は速く、事実、鉄道改革後、運賃値上げをしているが、客の利用キロ数は増加しているという。ただし、日本の国鉄の反省を踏まえれば、これも程度問題ということになろう。度を越えて運賃を値上げすれば、やはり客足は離れていくだろう。
[30]青木(1994)は、DBが「1948年の発足以来1951年を除いて一貫して赤字」であり、1951年は7,000万マルクの黒字だったとしている。しかしDBの発足を1948年としている根拠は不明。桜井(1996, ch.4)によれば、第二次世界大戦敗戦後の連合軍占領下では、米国・英国占領地区(統合経済地区)と、フランス占領地区では経営が相違した。1949年5月23日の基本法公布によるドイツ連邦共和国成立の後、同年9月7日から米国・英国占領地区では「ドイツ連邦鉄道」DBという名称が使われ、同年10月11日に連邦交通省はそれを単一名称とすることを決定したが、二つの経営組織は「統合経済地区ドイツ連邦鉄道」「ドイツ連邦鉄道南西ドイツ鉄道経営連合」に分かれたままであった。両組織の合同は、1951年3月2日の「ドイツ連邦鉄道の所有権の関係についての法律」、1951年12月13日の「連邦鉄道法」の公布とその実施(同年12月18日)まで待たねばならず、正式には、DBの成立は1951年12月ということになる。したがってここでは「DBは発足以来一貫して赤字経営を続けてきた」という表現に改めた。
[31] DBAGの説明では、1990年の負債額は470億マルク。
[32]1マルク=約74円で換算。以下この節は同様。
[33]ドイツの鉄道改革はBahnreformという用語が用いられており、日本のように国鉄民営化とは呼ばれていないことには注意がいる。厳密に言えば、民営化(Privatisierung)は改革の仕上げの段階として「可能な場合に連邦保有の株式を公開する」段階を指している(青木, 1994)。
[34]西ドイツでは、連邦レベルで、一般会計事業としての政府直営事業、特別会計事業としての政府直営事業の他に、固有の経営と会計を有するが法人格をもたない特別財産(Sondervermogen)という公法形態があり、ドイツ連邦鉄道の他にもドイツ連邦郵便が特別財産の形態をとっていた。実は、戦前のナチス政権下で統制経済が進む中、1937年から旧ドイツ帝国鉄道は特別財産の形態をとっており、独立採算的ではあるものの、営業利益の一部がアウトバーンの建設に回されるなど自立性が弱められていた経緯がある(桜井, 1996, p.51; pp.100-104)。
[35]この数字については、この章の冒頭の注25を参照のこと。
[36]日本の運輸省の『運輸経済年次報告』(1996, p.83)によると、DBAGの営業上不要な不動産等評価額で約133億マルク(約9,842億円)を継承したことになっている。ただし、BEVのパンフレット「鉄道改革の基礎」(Fundamente zur Bahnreform)によると、BEVが設立時点で旧国鉄から引き継いだ不動産は、連邦全体で約225,000箇所、150,000ヘクタールにのぼり、そこから、DBAGの開業貸借対照表では、少なくとも50億マルク相当の不動産が移管されることになっていた。これだけの量になると、これらの不動産の登記、移管が一気に片付くものではなく、徐々に、鉄道に必要な不動産はDBAGに移管し、鉄道に不要な不動産は市場で売却するなり、BEVが活用するなりが行われてきている。その作業は少なくとも1999年のインタビュー時点でも続けられているので、継承資産の金額については曖昧さが残る。
[37]過去債務の償還等で一般財政需要が増大するために、ガソリン1リットルにつき16ペニヒ(=0.16マルク)、軽油1リットルにつき7ペニヒ(=0.07マルク)へと鉱油税の引き上げが行われ、1994年度で約77億マルク(約5,698億円)の増収になった(運輸省, 1996; 桜井, 1996, p.293)。
[38]1993年12月27日に制定された鉄道改革関連法の中の一つ。
[39]表4-2の中のDBは、正確には、鉄道改革前はドイツ連邦鉄道(Deutsche Bundesbahn)を意味していたが、鉄道改革第二段階後は分社化を経てDBグループを意味している(ただし今度はDeutsche Bahnドイツ鉄道の意味)。DBグループでは、ロゴとして今でも列車等にDBを付けている。特に混乱しない限りは、鉄道改革前も後もDBと呼ぶことにする。
[40]公共旅客輸送の観点からは、この他に都市高速バスも重要な役割を担っている。土谷(1997)によると、ドイツの交通網は、各主要都市圏内のネットワークとそれらを相互に結び付ける高速交通(Schnellverkehr)とに分類され、高速交通を担っているのはDBの各路線と都市高速バスである。都市高速バス(Stadteschnellbus) は、ほとんどが1時間間隔の運行で、DBの1時間間隔の列車ダイヤと対応している。大幅な路線数増により、DBの路線網の隙間を埋めている。
[41] DBAGではProduktと呼んで説明していた。
[42]219km。2001年末完成、2002年5月開業予定。
[43] DB Netzの説明では、ICE3専用線といっても、DBグループだけが列車を走らせるわけでもなく、おそらくオランダもICE3を購入して、この路線を使用することになるという。
[44]何をもって近距離旅客輸送と言うのかについては、おおむね乗車距離50kmあるいは乗車時間1時間が目安になっていて、路線ではなく列車体系に関する分類概念である(桜井, 1996, p.267; 住田, 1998)。鉄道改革関連法の鉄道新秩序法として、同じ1993年12月27日に制定された二つの法律によれば、 @「公共近距離旅客輸送の地域化に関する法律」(地域化法)では、主に都市、都市近郊および地域の交通需要を満たすためのものを「公共近距離旅客輸送(OPNV)」といい、区別がつきにくい場合には、一つの交通機関の1回の乗車距離がおおむね50kmまたは乗車時間が1時間を超えない場合とするとされている。A「一般鉄道法」1条5項では、列車の乗客の多数の全体の乗車距離が50kmを超えないか、または乗車時間が1時間を超えないものが鉄道近距離旅客輸送と規定されている。
[45]連邦交通省でのインタビュー。
[46]旧東ドイツ東端の小さな町Frankfurt an der Oderと区別するために、正確にはFrankfurt am Main (マイン川沿いのフランクフルト)と呼ばれているドイツの商業・金融の中心都市。ドイツの空の玄関フランクフルト空港を擁している。本書でフランクフルトといえば、このFrankfurt am Main を指している。
[47]連邦交通省でのインタビュー。
[48]連邦交通省でのインタビュー。
[49]近距離旅客輸送のところで登場したEC理事会(EEC)規則No.1191/69が修正されたもの(桜井, p.206; p.228)。
[50] ECでは、加盟国のうち特定の加盟国に拘束力を持ち、その実施方法については、加盟国が国内法を制定する「指令」(Directive)を出している。
[51] ICEはハノーバー=ビュルツブルク間(327km)およびマンハイム=シュツットガルト間(99km)が1991年6月から最高時速280kmで営業を開始した(住田, 1998)。
[52]連邦交通省でのインタビュー。
[53]連邦交通省でのインタビュー。
[54]連邦交通省でのインタビュー。
[55]もともと公債はDBが発行していたが、「連邦の鉄道の合同と新編成に関する法律」では、1994年と1995年に限って、各年95億マルクを限度として起債が認められていた(桜井, 1996, p.290)。しかしBEVの説明では、第二段階で制度が変わる1999年7月1日以前はBEVも公債を発行でき、実際、1994〜1999年までBEVは公債を発行していたという。これはDBの発行していた公債の借換である。
[56] DBAGはインフラ建設だけが連邦会計検査院の検査対象になるが、BEVは100%検査対象である。この例では、検査院は、借入金はBEV単独で借り入れるよりも、連邦政府と借り入れたほうが利子が少しは安くなるので、それで年間2700万〜3000万マルク節約できることを指摘している。またこれとは別に、BEVの不動産の管理の仕方を工夫することで、交渉人コストや税金が年間2億マルク節約できることも指摘している。
[57] BEVでのインタビューと資料では、ドイツの鉄道改革の理由・目的として二つが挙げられた。第一の理由・目的がこの公務員に関するもので、第二の理由・目的は、連邦政府を予算上のリスクから救うこととされていた。
[58]東西ドイツ国鉄で、公務員がいたのはDBだけで、DRには公務員はいなかった。
[59] BEVでのインタビュー。
[60] BEVのパンフレット「鉄道改革の基礎」による。
[61] BEVの説明によると、正確には、1998年末現在の約7万1000人の公務員のうち、約6万8000人はここでいうようなBEV所属の公務員であるが、残りの約3000人は、BEVから長期の休暇が出される形でDBAGで仕事をし、DBAGが給料を支払っている。
[62]この他に、訓練生が1万6275人いる。これを加えると26万8743人になる。
[63]この問題は、いまだに解決したとは言いがたい。例えば、ICEやIC/ECは10〜30分の遅れが常態化しているが、こうした事態をDBAGはかなり気にしている。DB Netzの玄関にも同様のものがあったが、フランクフルト中央駅では掲示板で毎日の遅れの状況が一般乗降客によく見える場所に掲示されていた。これによると、1998年1年間でドイツ連邦全体で、定刻に運行していたのは、遠距離(Fernverkehr)が86.7%、近距離(Nahverkehr) が92.5%、Sバーンが97.9%ということだった。こうした遅れは、最近むしろ悪化さえしている。フランクフルト中央駅の掲示板には、1999年10月17日の定刻運行を、ドイツ連邦全体で、遠距離(Fernverkehr)69.2%、近距離(Nahverkehr) が86.2%、Sバーンが98.3%、フランクフルト中央駅で、遠距離(Fernverkehr)65.7%、近距離(Nahverkehr) が82.0%、Sバーンが97.8%であったと書かれていた。このように遅れが常態化している理由としてDBAGが挙げたのは、線路に工事中の箇所が多いこと、ドイツの天候は荒れると大変なことであった。そして、公務員は怠けていてもクビにできないので、規律が乱れているためという指摘もあるとの巷の噂も紹介された。列車の遅れの状況をわざわざ乗客向けに掲示することも、公務員に対する一種見せしめ的な雰囲気が漂っている。こうした公務員に対する不信感が鉄道改革の底流の一つをなしていたことは確かなようである。
[64] BEVのパンフレット「鉄道改革の基礎」による。
[65]病院、ホテル、レジャー施設、さらに500ほどの趣味のサークルまである。
[66]住宅会社は有限会社形態で、鉄道改革前から存在している。従業員には公務員はいない。かつては20社あったとも言われるが、統廃合したと思われる。
[67] BEVでのインタビュー。
[68]裏を返すと、BEVが分与された不動産の中には、鉄道事業に必要な不動産がまだ含まれていることになる。BEVの説明では、正確に言うと、DBAGもしくはDBグループが使用しているが法律上、登記上はまだBEVの所有となっている鉄道関係不動産が残っている。これらは少しずつ登記が進められてきているが、今後もDBグループ各社に無償で譲渡される予定である。1999年のインタビュー時点でも作業は進行中であった。こうした登記に時間がかかるのは、もともと国鉄が所有していた頃には一括して使っていたので、境界も面積もあいまいで、測量もきちんとしていないなど、登記に必要なデータが揃っていないためである。測量等の作業には思いの外時間がかかる。同様の現象は、日本の国鉄清算事業団でも生じている。
[69]例えば、フランクフルトのBEV本部(1999年12月にボンに移転する前)の裏手には、フランクフルト貨物駅跡の広大な土地が広がっているが、この土地はBEVとDBAGが分割して所有している。このうちフランクフルト中心部に近くてメッセ会場に隣接している土地はBEVが所有している。この跡地は売却せずに、BEVをはじめとしてカナダ企業などの外資からの投資も含め、約60億マルクを調達して再開発会社を作り、現在80m幅の道路を中心とした複合施設の街に再開発中である。
[70] DBAGの説明では、このうち約90億マルクはBSchwAGに基づいた連邦政府の補助金で、インフラに当てられているが、残りは主に車両の近代化投資に当てられているという。
[71] DBAGでのインタビュー。
[72] EBAの説明では、年間額は景気の良し悪し等にあまり関係なく比較的安定しているという。
[73]ベルリン市は面積889km2、人口347万人で、ベルリン運輸連合は1997年に設立。シュツットガルト運輸連合は1977年設立で、シュツットガルト市とその周辺4郡を含む面積3000km2の範囲で、人口230万人。
[74] DBAGでのインタビュー。
[75]連邦交通省とEBAでのインタビュー。
[76] EBAでのインタビュー。
[7]これはEBAの説明だが、DB Netzの説明では、さらに数字が特定され、建設費の37%をDB Netzが負担し、残り63%を連邦政府の無利子貸付金で賄うとされていた。
[78]ただし、EBAの説明では、減価償却の額は場所によって違うので、それらを全部合わせて平均化して計算しているという。
[79]「連邦交通路計画1992」では、ベルリン周辺の長距離路線およびSバーン路線の整備が重点的に扱われ、鉄道部門の今後10年間の計画規模約2,000億マルクのうちの約10%、200億マルクを占めている(ケスタ・青木, 2000, pp.61-62)。
[80]環境破壊に配慮すると、山間地でトンネルや橋が多くなり、建設コストが高くなるので、環境破壊の問題はコスト計算とも密接に関係している。連邦会計検査院の説明では、特に最近、環境破壊への配慮で鉄道建設コストが膨らむ傾向にある。
[81]例えば、スウェーデンのストックホルムとイタリアのボローニャを結ぶ路線が計画されていて、ドイツ国内では、ベルリン、ライプチヒ、エアフルト、ニュールンベルク、ミュンヘンといった都市を通ることになる。しかし、この計画ではエアフルトとニュールンベルクの間に新線を建設する必要がある。これだけ長距離になると、利用は旅客というよりも貨物中心になるが、連邦会計検査院の計算でも、DBAGの計算でも赤字が確実であり、現在のところ新線建設は凍結されている。ヨーロッパ全体の鉄道網を整備するという観点から新線建設の必要度を検討するという考え方もあるが、鉄道改革後は、経済性の検討がより重要になったといわれる。
[82] EBAでのインタビュー。
[83] EBA自身の説明では、EBAの目的は、こうしたいくつかの財源からの資金をすべて使い切って、新線建設と改良工事に投資することにあるという。しかし同時に、連邦政府の予算制約が厳しい場合には、鉄道事業者自身に資金調達させるのではなく、工事期間を延長する、新規工事の着工を凍結する、プロジェクトの一つを年度途中で凍結するといったことになるという。
[84]ただし、新線建設(100%補助)部分についてはEBAがDB Netzを検査するが、改良工事については、EBAの検査はなく、公認会計士が監査を行っている。公認会計士は、資材などが目的通り正しく使われているかをチェックするが、経済的に実施しているかについては検査しない。これは、改良工事にはDBが自ら資金を出しているので、この面は担保されているはずとの考えからである。しかし国からも無利子貸付金が出ているので、改良工事については、連邦会計検査院(Bundesrechnungshofes以下「検査院」と略記) が経済性について検査している。もっとも検査とはいっても、形式的には検査院がEBAを検査する形をとっており、DB Netz に対しては、検査院は不足する資料を請求することになる。
[85]こうした「検査」は、鉄道改革前はDB自身が行っていたもので、検査院の検査とは異なる。検査院は、EBAの検査を行うが、DBAGについては一部だけ、EBAの検査で不十分でなかったところだけを検査している。検査院は、鉄道改革前にはDBに対して普通の役所に対するのと同じ検査をしていたし、ドイツ統一後は、DRについても検査をしていた。しかし、鉄道改革によって、
DB+DR ⇒ BEV+EBA+DBAG
となると、BEVとEBAは検査院の検査対象だが、DBAGは検査対象から外されてしまう。これは国会法91条とドイツ鉄道株式会社設立法DBGrGに、補助金を受ける場合でも、DBAGの予算と支出について検査院は検査しなくていいと定められてしまったからである。こうなったのは、EBAが「検査」しているからという理由によるのではなく、検査院の検査を嫌ったDBの一種のロビー活動の影響であったとも言われている。ただし、新線建設と改良工事には連邦政府が補助金を出しているので、インフラ部分については、検査院はEBAを検査し、EBAで入手できなかった資料については、DBAGまで行って入手するということをしている。つまり検査院は、EBAがDBAGを正しく検査したかどうかを検査するのであって、DBAGに対しては資料請求だけとなっている。ただし、DBAGに対するEBAの検査は全部ではなく抜き取り検査なので、この抜き取り検査で問題が見つかった場合には、EBAが検査したところ以外を検査院が検査することになる。そうした事態にならなければ、検査院はDBAGの検査を始めない。
[86] EBAの説明では、これまでは例えばトンネルのサイズの設計変更を却下したことはある。ただし、改良工事の場合は別の要因も絡んでくる。ドイツでは補助金の期限は25年ということになっているので、その期限前に、他の補助金をもらうような事態になった場合には、検査院が補助金のカットを指示することになる。こうした考えに基づいて、線路等インフラの管理はDBAG、現在はDB Netz の仕事なので、インフラのメンテナンスを怠ったり不適切だったりして、設備の更新が必要になった場合、検査院は補助金の支出をやめさせることができる。
[87] EBAでのインタビュー。
[88]連邦交通省は、資産評価の切り下げ自体は現実的な額になったとの立場だが、メンテナンス等の更新のための設備投資の抑制効果については、同様の危惧をもっていた。
[89]これに対して、EBAとしては、鉄道改革の最初の5年間は新線建設と改良工事の両方に資金を使ってきたが、今後は新線建設よりも改良工事に重点を置く方針だという。
[90]連邦交通省でのインタビュー。
[91]そこで、連邦交通省によれば、現在、アウトバーンは重量トラックを除いては無料だが、2002年に重量トラックについて料金を引き上げる際に、他の車種についても有料化を図ることを考えている。ただし、アウトバーンが料金所等を設置するような構造になっていないので、どのような形で料金を徴収するのかについては、現在検討中である。
[92]ドイツ語ではKabotage、英語ではcabotage。もともとは外国船・外国機の近海・国内運行(権)のことで、ここではドイツ非居住者のドイツ国内の通行を意味している。
[93] DBAGでのインタビュー。
[94]上田他(1997)によれば、ドイツにおいては、連邦全域にわたる総合交通計画の策定に関して、対象となる交通プロジェクトを統一的に評価するための指針「RAS-W」(Richtlinien fur die Anlage von Strassen Teil: Wirtchaftlichkeitsuntersuchungen)が適用され、道路、鉄道、内航水運に対する交通投資に関して、一貫した統一的な手法の下に経済分析(費用・便益分析)と財務分析の実施が法的に義務づけられている。連邦総合交通計画は連邦議会の承認を経て実施に移されるが、その際、道路、鉄道、水運の各部門ごとにすべての候補プロジェクトの優先順位がランキングされ、評価結果とランキングは連邦議会に提出される。こうしたとりまとめは連邦交通省によって行われているとされている。しかし、連邦交通省とEBAに確認したところでは、RAS-Wの適用対象は道路だけであり、鉄道や水運に適用されたことはないという回答であった。
鉄道事業者のインタビュー調査を進めていた際に、ある鉄道事業者で聞いた話が印象に残っている。曰く、鉄道はトンネルなどに莫大な資本を投下して建設されるので、開業当初は減価償却費で利益が出ないようになっているが、減価償却が済めば利益が出るようになる、というのである。会計上は償却が終わってしまった施設でも、実際にはそれ以降も長期間使用することが可能なので、そうなると減価償却費が発生しない分だけ低コストになって利益を生むようになるのだ、というわけである。
調査をしていたのは1998年後半から1999年前半にかけてで、その時期には、この会話は単に形式的な減価償却と現実の資産価値の差異の話としての意味しか持っていなかった。ところが1999年後半に入ると、山陽新幹線をはじめとする鉄道のトンネルの崩落事故が相次ぐ。幸い、調査対象としていた鉄道事業者ではこうした事故は発生しなかったが、安全確保のための莫大なメンテナンス・コストの必要性が現実のものとなってくると、物事の本質が姿を見せ始める。すなわち、鉄道に限らず、施設の建設は長期のトータル・コストで考えるべきであり、それには少なくとも「建設コスト+メンテナンス・コスト+支払利息」で考えなくてはならないという当たり前の事実である。たとえ建設コストが安く済んでも、建設後のメンテナンス・コストが高ければ、使用期間が長期になればなるほどトータル・コストは跳ね上がってくることになる。そして、財投資金のような有利子資金の比重が大きくなれば、支払利息は莫大なものとなるだけではなく、ある限界を超えてしまえば、どんなに営業努力を積み重ねても、有利子負債は雪達磨式に膨れ上がっていくことになる。
メンテナンス・コストや有利子負債の比率の高い施設については、建設後の維持管理や借入金返済に重点を置いた事業のパッケージとしてビジネスで考える必要もあるかもしれない。そこから、こうした施設の建設・運営は民間にまかせて経済性を追求させた方がよいというようなPFI (private finance initiative)的なアイデアも生まれてくる[95]。あるいは、補助金を使って建設された施設が、当初予定されていた時期よりも早く更新する必要に迫られた場合には、メンテナンスが不適切だったり、それを怠ったりした結果だとして、追加的な補助金の支出を拒否することも考えられる[96]。
ここでの主張は、ある意味では全く当たり前のことである。それは会計検査院の検査対象が、実は、物理的に存在する資産である「モノ」だけではなく、本質的には、建設・取得から始まって長期的な維持管理そして収支までも含めた事業、つまり「ビジネス」としての広がりをもっているということである[97]。ところが第2節で見るように、従来の会計検査院の検査は、一般に、目の前のモノに視野が限定されがちであった。例外的なのは旧3公社の検査で、民営化前から既に検査報告の中に「ビジネスの検査」的発想を断片的にではあるが見出すことが出来る。旧3公社の検査方法は米国GAO (General Accounting Office)型の有効性検査や企業型検査を志向したものではなく、むしろこれまでの会計検査院の検査能力と検査マインドを維持した中で行われてきたものである。第3節では、その延長線上でビジネスの検査の萌芽が見られることを示そう。
ビジネスの検査は、会計検査院の検査マインドの延長線上に位置するにもかかわらず、検査対象をビジネスとしてとらえるには、これまでの (1)正確性、(2)合規性、(3)経済性・効率性、(4)有効性といった検査の観点とは異なる観点・視点が必要になる。それが「トータル・コストの視点」である。トータル・コストの視点から見れば、これまでとは全く異なる検査のポイントも浮かび上がってくるはずである。例えば、施設の建設を長期のトータル・コストで考えると、少なくとも「建設コスト+メンテナンス・コスト+支払利息」を含めてトータル・コストを考える必要が出てくる。財投資金などの有利子資金を利用した場合には、通常考えられている以上に支払利息が大きなコスト要因になるのである。これは単に (3)経済性・効率性 を考える際のタイム・スパンをより長期に設定するという程度の違いだけにはとどまらない。資金調達スキームの是非も含めた判断が要求される。そこで第4節ではビジネスの検査のポイントとして、国鉄の経営破綻を事例として資金調達スキームの重要性を論じ、さらにビジネスのライフ・サイクルを意識した新しいビジネス検査のスタイルについても考察したい。
従来の会計検査院の検査は、一般に、目の前のモノに視野が限定されがちであった。例えば、持田(1995)は、1968(昭和43)年度から1993(平成5)年度までの26年間の決算検査報告の全掲記事項(3853件)を観点別に分類しているが[98]、その結果は、「合規性」(2920件 75.8%)、「経済性・効率性」(780件 20.2%)、「有効性」(153件 4%)と圧倒的に合規性検査が多かったのである。つまり、公共工事のハード面で施工や出来高が契約書・設計書・仕様書通りであるかどうかという不当事項の抽出が中心だったことになる。
しかし同時に表5-1のような傾向も明らかにされる。つまり、日本の会計検査院の検査活動では、1980年代以降に、合規性検査から経済性・効率性検査への移行が起こり、その結果、現在では、実地検査によって極力施策に対する原データを収集して事態改善のための処置を要求するようになったというのである。
表5-1. 検査活動における観点の比較
日本の会計検査院 | 米国のGAO | ||
---|---|---|---|
1960年代の高度成長期まで | 1980年代以降 | 1974年以降 | |
主な検査対象 | 公共工事のハード面 | 社会保障のソフト面 | 連邦政府のプログラム |
観点 | 合規性検査 | 経済性・効率性検査 | 有効性検査 |
重視される機能 | 個別不当事項抽出 | 処置要求(事業改善) | 情報提供 |
検査内容 | 金額の大きいものを選び、公共工事の施工や出来高が契約書・設計書・仕様書通りであるかを検査 | 年初に向こう1年間実施する検査テーマや事業種目などを設定して、実地検査で問題点を集約する | GAOでなければ入手できないような膨大なデータや特色あるヒアリングを行って、非常に信憑性の高いデータを提示する |
こうした観点別に見た整理の仕方は、会計検査院自身によっても行われている。1997年に出された『日本国憲法下の会計検査50年のあゆみ』(以下『あゆみ』と略記)によれば、検査の観点は、事務・事業の分野や会計経理の内容等に応じて様々であるが、それらの個別具体的な観点を共通に認められる性質により大別すると、(1)正確性、(2)合規性、(3)経済性・効率性、(4)有効性の四つに分類できるとされている。このうち、経済性(economy)、効率性(efficiency)、有効性(effectiveness)の観点からの検査は、その頭文字をとって3E検査とも呼ばれている。そして戦後は、おおむね、合規性を中心とする検査から、経済性・効率性にも同等に注意を払う検査へ、そしてさらには経済性・効率性に有効性を加えた3E検査を重視する検査へと展開しているという大きな流れが見て取れるという(p.47)。
しかし、経済性・効率性の検査への展開については納得性があるが、果たして日本の会計検査院がGAO型の有効性検査を志向してきたのであろうか。米国では、1974年の議会予算留保統制法によって、連邦政府のプログラムを評価し、その結果を議会に勧告する法的権限が正式にGAOに与えられた。その結果、GAOでなければ入手できないような膨大なデータや特色あるヒアリングを行って、非常に信憑性の高いデータを提示するという情報提供機能を重視した有効性検査が行われるようになったといわれている。日本では、有効性検査に直接対応しているのは「特記事項」であるとも言われるが、こうしたとらえ方には後述するように疑問がある。また特記事項は、近年むしろ件数では減少傾向にあり、とても「展開している」と形容できるほどには十分に利用されていない。
そこで、次に旧3公社の例を挙げ、3公社の検査方法がGAO型の有効性検査や企業型検査を志向したものではなく、むしろこれまでの会計検査院の検査能力と検査マインドを維持した中で行われてきたこと、そしてその延長線上で、民営化の前にあってさえ、既に3公社の検査報告の中に「ビジネスの検査」的発想を断片的にではあるが見出すことが出来るということを示そう。
戦後になって、それまで国の事業として国の特別会計による運営形態で行われてきた専売事業(大蔵省専売局)、鉄道事業(運輸省)、電信電話事業(電気通信省)は、それぞれ1949(昭和24)年6月に日本専売公社(以下「専売」と略記)、日本国有鉄道(以下「国鉄」と略記)、1952(昭和27)年8月に日本電信電話公社(以下「電電」と略記)として公共事業体の事業に移行した。
これら3公社は、資本金全額が国の出資によるものであったことから、必要的検査対象団体となったわけだが、公社化が先行した国鉄と専売に対する書面検査については、国鉄と専売が公共事業体に移行する直前、1949(昭和24)年5月に通達された計算証明に関する指定で、「国の行政機関として従来のとおり計算証明を要する」ものとされていた。ところが翌1950(昭和25)年に、会計検査院に対してGHQから、会計検査によって公社の能率的な運営を阻害することのないよう、米国における公共事業体の検査の方法を踏襲することが示唆された。これが「企業型検査」と呼ばれるもので、企業の経理制度及び内部統制制度を吟味し、財務諸表が期間損益と財政状態を適正に表示しているか否かについて意見を表示することを目的としていた。つまり、公認会計士が私企業に対して行う監査と同様のものである。この場合、個々の収入、支出等の取引については抽出検査にとどめ、これらの精密な吟味は内部監査に委ねることになる。このGHQの示唆を受けて、会計検査院は1951(昭和26)年4月に、国鉄と専売について「企業型検査」の導入を決めたのである[100]。
この間の経緯に関して、国鉄については『国鉄史』によって裏付けることができる。国鉄側の記述には、GHQは登場しない。国鉄側は、独立採算制をとる公共企業体としての業務運営の自主性を重視し、企業能率および財務検査にその重点が置かれるべきであるという結論に基づき、1950(昭和25)年3月7日に経理局長名をもって「会計検査院の検査方針の改正を希望する」文書を会計検査院に提出し、計算証明事項を予算関係書類、債務負担行為計算書、資金計画書、月次総括決算表、決算報告、財務諸表(損益計算書・貸借対照表および財産目録)および特定の会計行為に関する証拠書類に限定するように要望した。これに対して、会計検査院から、1950 (昭和25) 年4月1日の「昭和25年度以降の計算証明について」をもって国鉄側の趣旨により計算証明の指定を行う予定であるとの通知を受けている(『国鉄史』第12巻p.927)。
こうした中で、会計検査院は、国鉄の財務諸表の信憑性に重大な関心を持ち、さしあたり、地方における試算表の記録計算について、その正確度を測定する方針を立て、1950(昭和25)年11月下旬から約1週間にわたり、名古屋地方経理事務所およびその決算所属の各機関に対して、公社化後最初の会計検査が実施された。この会計検査試行の結果を受けて、会計検査院からは1951 (昭和26) 年4月25日に「昭和26年度以降の計算証明について」で、1951(昭和26)年度から、いわゆる官庁会計における現金および物品の出納を中心とする検査ではなく、財務諸表とその収入および経費を主目的とする企業会計的な検査に切り替える旨の通知があった。これを補足する形でほぼ同時期、1951(昭和26)年5月15日に会計検査院事務総長から国鉄総裁あてに「内部監査制度の強化充実に関する件」として、次の要請があった。
「国鉄に対する検査についての計算証明については、昭和26年4月に指定した通りであるが、これは国鉄部内における内部監査制度および運用が所期の結果をあげることを前提として証明方法が簡易化されたものである。しかし、公社移行後、国鉄の内部監査制度の整備・確立に努力せられていることは了知するところであるが、現在においては監査員の員数・素養・部内各方面の協力の点等について、なお十分でない点も見受けられるので、これらの事項について、中央・地方とも一層の配慮が望ましい。」
しかし、この要請と国鉄監察当事者の努力にもかかわらず、その内部監査機能を充実することはできず、わずか1年後の1952(昭和27)年7月1日に「日本国有鉄道の計算証明に関する指定について」が会計検査院長から国鉄総裁に示達され、収入・支出に一定金額以上の証拠書類の提出を定めたことで、内部監査の強化を前提とした企業会計的な検査はここに終止符を打ったのである(『国鉄史』第12巻pp.927-929)。
こうして国鉄側の説明によれば、内部監査機能の充実に失敗したことで企業型検査はすぐに修正されてしまうのだが、もう一方の会計検査院側は、企業型検査の修正の理由として次のようなことを挙げている[101]。
2と3については国鉄側とのニュアンスの差を感じるが、いずれにせよ、こうした一連の理由から、企業型検査は修正され、1953(昭和28)年2月には、検査官会議で「国の会計と同様に不当事項の検査を行い、これに加えて財務諸表の監査及び経営能率監査を行う」ことが確認された。つまり、国営事業当時と同様の方式の検査を行うかたわら、財務諸表の検査や経営能率の検査も行うことになったのである。この方針は、1985(昭和60)年に専売がJTに、電電がNTTに民営化され、1987(昭和62)年に国鉄が旅客鉄道会社であるJR6社と日本貨物鉄道(JR貨物)の計7社に分割民営化されるまでは、公式には基本方針の中で堅持されることになる。
図5-1. 全体の不当事項の件数の推移
ただし、こうした整理の仕方には疑問も残る。企業型検査をやめた理由として会計検査院側が挙げている理由は納得性に乏しいのではないだろうか。理由の2で指摘しているように、当時、公認会計士と同等の財務諸表監査能力のある調査官がごく少数しかいなかったというのは事実としても、会計検査院がその後もそうした人材を採用もしくは育成しようとした形跡がない[103]のはなぜだろうか。そもそも企業型検査をするつもりがなかったのではないだろうか。
実際、理由の3が消えたはずの民営化以降も、企業型検査を採用する兆しすらみられない。3公社の民営化を踏まえて、1987(昭和62)年5月に、会計検査院で、特殊会社の検査はどうあるべきかの検討が行われた際には、民営化の趣旨を認識し、経済性・効率性の観点からの検査、とりわけ会社経営が効率的に行われているかという点に重点を置いて検査することとされたといわれる。そして民営化後は、経営上の効率化を求める指摘がほとんどになるとともに、検査段階でも、事業ごとに収益性を明らかにするような資料の提出を会計検査院側が求めることが多くなってきているとはいわれている。しかし、実際に出現したものは、例えば、国鉄の場合、民営化してJRになった直後に見られた、次のような私鉄との比較をベースにした指摘である。
このうち1はJR 6社に対して、2はJR東日本に対してのものである。このように他社との比較によって改善策を探るという方法はベンチ・マーキングと呼ばれ、民間企業では一般的に用いられている手法である。しかし公認会計士が行うような企業型検査ではない[104]。 会計検査院がそもそも企業型検査をするつもりがなかったのではないかということは、理由の1についても感じられる。確かに公社発足当初は、指摘のように、実体的に是正を要する会計経理が発生していた。そして1962(昭和37)年以降、それまでの不当経理摘発一辺倒の検査から、より広く、不適切不合理な会計経理について、その発生原因を探求して、改善を図るための意見表示・処置要求を指向した検査が積極的に行われるようになってきたことも指摘されている(『あゆみ』p.48)。そのことは図5-1にも顕著に現れていた。
しかし本当に、不当事項が非常に多かったために企業型検査を導入しなかったのであろうか。確かに図5-1と図5-2を比較すると、3公社の不当事項の件数のピークは、全体よりも早く、国鉄、専売については公社化した翌年度の1950(昭和25)年度、電電については公社化した2年後の1954(昭和29)年度になっている。ところが、その後、不当事項の件数が減少していっても、合規性検査から経済性・効率性検査へという単なる観点の移行しか起こらなかったのである。企業型検査への移行は起こらなかった。なぜ不当事項の件数が減少してきたにもかかわらず、3公社について企業型検査に移行しなかったのであろうか。企業型検査を修正したのは、不当事項が多かったためというよりも、むしろ、会計検査院が設立当初から持っている責任追及主義や非難官庁としての会計検査院の検査マインドと企業型検査とが相容れなかったためなのではないだろうか。
図5-2. 3公社の不当事項の件数の推移
事実、その後、理由の2,3がなくなったわけでもないのに、実際には、公社化から約25年を経過した頃から民営化までの間には、財務諸表上の経営成績をもって経営能率を判定することを行っていたのである。この間のほぼ10年くらいの期間では、企業型検査の形式を踏まずに、収益性、より正確には長期的な収支の経済性が問われており、「ビジネスの検査」的発想で各公社の経営全体をとらえてものを言うという姿勢が現れ始めている。
例えば国鉄について言えば、
という、いわゆる「シリーズ」が出現する。特に3, 4, 5は「三部作」とも呼ばれ、毎年計画的に貨物、荷物、旅客と部門を移しながら特記事項が掲記されている。
また専売については、
そして、電電についても、
という指摘が行われている。この他、3公社共通のものとして、3公社直営病院の運営について(1977(昭和52)年度決算検査報告, pp.213-216, 特記)の指摘もなされた。
これには、1975(昭和50)年度決算検査報告から特記事項として問題提起することが始まったという背景がある。その全体的な流れを受けて、3公社についても、この頃から、堰を切ったように、特記事項が登場しだしたのである。ただし、これを観点の推移としてとらえ、特記事項を有効性検査に対応させることには疑問がある。米国では、GAOでなければ入手できないような膨大なデータや特色あるヒアリングを行って、非常に信憑性の高いデータを提示するという情報提供機能を重視した有効性検査が行われるようになったといわれている。しかし、こうしたGAOの調査型の有効性検査に対して、日本の会計検査院の特記事項は、追及型の検査マインドをそのまま反映したものだからである。
つまり、実地検査によって極力原データを収集しようとしている際に遭遇した様々な「いけないこと」「悪いこと」、例えば、国鉄では、当時組合が強硬で、何をするにも現場協議する必要があり、機械を購入しても現場協議が整わなくて動かせないような状況が頻繁に見られた。しかし、こうしたことは国鉄当局の努力だけでは解決できるものではなく、個別の不当事項としては成り立ちにくい。つまり追及していっても、決算検査報告には掲記することが出来ない。そこで、投資効果の発現という観点から、それまでに遭遇していた様々な「いけないこと」「悪いこと」を特記事項としてまとめていったという側面があったのである。したがって企業型検査とも調査型の有効性検査とも発想やアプローチの仕方がまったく異なるものだったことになる。
そこには、不当だから問うというのではなく、長期的な収支の経済性を問うということに姿を変えた追及する姿勢があり、会計検査院の検査マインドを反映した「ビジネスの検査」的発想のものであったことがわかる。そして、ここに企業型検査の導入を取りやめた最大の理由があったと思われる。会計検査院が培ってきた検査能力をコア能力として考えたとき、会計検査院の検査マインドの延長線上には、企業型検査は存在しない。GAO型の有効性検査も存在しない。本稿で主張するようなビジネスの検査こそが見えてくるのである。
こうした流れを踏まえると、米国GAO型の有効性検査や企業型検査とは違った方向性が見えてくる。そのことを整理して確認しておこう。
まず最初に、会計検査院の検査対象は、物理的に存在する資産である「モノ」だけではなく、本質的には、建設・取得から始まって長期的な維持管理そして収支までも含めた事業、つまり「ビジネス」としての広がりをもっているのだということである。実は、合規性検査が主体となっている公共工事でさえ、確かに決算検査報告に掲記されているのはモノの問題でも、注意深く観察すれば、責任を追及されているのは事業主体の組織であり、モノに結実するまでの事業全体のプロセスが問題とされていることにすぐに気がつく。にもかかわらず、現実の決算検査報告では、検査対象をモノからビジネスへと広げることに躊躇が見られ、旧3公社の事例のような一部の例外を除いて、物的証拠を挙げることに終始してきたのに過ぎない[105]。
第二に、「ビジネスとして検査する」という検査活動が、実は、会計検査院にとって全く未知の領域ではないということである。むしろ、実地検査によって原データを収集して、事態改善のための処置を要求するという、これまで培われてきた会計検査院の検査マインドの延長線上に位置するものである[106]。既に会計検査院の一部では、その経験とノウハウを蓄積しつつあるようにも見受けられる。もちろん、モノの検査も必要不可欠なサブプロセスとしてその中に組み込まれているべきである。こうした「ビジネス(として)の検査」が、ベンチ・マーキング的な手法一つをとっても、公認会計士がするような企業型検査とは本質的に異なることには注意がいる。
第三に、モノの検査に終始する姿勢は、不当事項が非常に多かった時期には、それなりに正当化することができただろうが、図5-2でも示されていたように、1970年代以降、国の事業がある意味で成熟化の時期を迎え、不当事項の件数自体が落ち着きを見せている状況下では、再考を要するということである。つまり、モノの検査からビジネスの検査へと大きく踏み出す時期に来ていると考えられる。いまこそモノの検査に閉じこもる姿勢から脱皮して、ビジネスの検査へと踏み出し、発展させるべきではないだろうか。ビジネスとして検査することこそが、巨大な「いけないこと」「悪いこと」に対して、中立を保って会計検査院の検査マインドを発揮させる唯一の方法だと考えられる。
このように、ビジネスの検査は、会計検査院の検査マインドの延長線上に位置する検査である。言い方を変えれば、モノからビジネスに検査対象を広げたからといって、会計検査院の検査マインドに特に変化が求められるわけではない。しかし、にもかかわらず、検査対象をビジネスとしてとらえるには、前述の(1)正確性、(2)合規性、(3)経済性・効率性、(4)有効性といった検査の観点とは異なった観点・視点が必要になる。それが「トータル・コストの視点」である。
トータル・コストの視点から見れば、これまでとは全く異なる検査のポイントも浮かび上がってくるはずである。例えば、施設の建設を長期のトータル・コストで考えると、少なくとも「建設コスト+メンテナンス・コスト+支払利息」を含めてトータル・コストを考える必要が出てくる。たとえ建設コストが安く済んでも、建設後のメンテナンス・コストが高ければ、使用期間が長期になればなるほどトータル・コストは跳ね上がってくることになる。そして、財投資金などの有利子資金を利用した場合には、通常考えられている以上に金利が大きなコスト要因になるのである[107]。
しかし、その金利負担は、資金調達スキームだけをチェックすれば、比較的容易に事前に試算することができ、巨額の国損を未然に回避することも可能である。そこで、まずは第1章で取り上げた国鉄の経営破綻の事例に戻って、資金調達スキームの重要性と事前検査の可能性を指摘し、トータル・コストの視点の意義を主張したい。その上で、ビジネスのライフ・サイクルを意識した新しいビジネス検査のスタイルを提示することにしよう。これは、個々の事業毎に、ある程度長期的な時間を考慮した事前の検査計画を基礎とするような検査スタイルである。
国鉄の経営破綻の原因としては様々な要因が挙げられている。しかし第1章でも指摘したように、直接の破綻原因は、国鉄が1965(昭和40)年度から着手した第三次長期計画が、そもそも資金調達スキームの段階で破綻していたことであった。しかもこのことを国鉄自身が認識していたことも事実である。すなわち、1963(昭和38)年5月10日に国鉄諮問委員会が国鉄総裁に提出した「国鉄経営の在り方について」では、1970(昭和45)年度の経営状態を試算し、借入金の償還・利払いなどによる「経営の完全破綻」を警告していたのである。
にもかかわらず、会計検査院は国鉄に対して一体どのような検査をしてきたのであろうか。実は第1章で整理してみたものは、既に述べたように、1970年代後半から特記事項で国鉄のシリーズが始まる以前の1973(昭和48)年に発行された『国鉄史』(第12巻pp.161-173)の中で、国鉄自身の手によって記述されていたものなのである。それどころか、『国鉄史』の原資料は、さらにその10年前の1963(昭和38)年5月10日に国鉄諮問委員会が国鉄総裁に提出した「国鉄経営の在り方について」であり、既にその段階で、1970(昭和45)年度の経営状態の試算を行い、「経営の完全破綻」を警告していたのであった。なぜ会計検査院は経営が破綻してしまったことが誰の目にも明らかになるまで、何も指摘しなかったのだろうか[108]。それどころか、国鉄のシリーズの特記事項にあってさえ、会計検査院は膨大な国鉄赤字の根本原因ともいえる資金調達スキームのでたらめさに全く言及すらしていない。1963(昭和38)年には、国鉄自身が資金調達スキームの破綻を指摘しているにもかかわらず、である。
ここに、ビジネスとしての検査を回避してモノの検査に終始するという会計検査院の従来の姿勢の問題点が明確になる。最低限、検査院は、資金調達スキームの事前検査をするべきである。日本の会計検査院では、なぜか事前検査は行われていないが、第4章でも触れたように、ドイツでは、ごく自然に会計検査院が計画段階での事前検査を行っている。日本の会計検査院も臆することなく事前検査を行うべきであり、特に、当事者自身から危険信号が出されている場合には、検査院は事前検査を率先して行うべきである。その際のポイントは、明らかに合規性ではない。資金調達スキームがいかに合法的なものであったとしても、利子支払いを含めた負債の返済計画が破綻した事業計画などは常識的に考えてナンセンスなのである。どんなに非常識な政策でも、法律さえ作ってしまえば不当事項として指摘されることはあるまいという姿勢に対して、会計検査院は自らの検査マインドに立ち返って検査すべきではないだろうか。
資金調達スキームの破綻が国鉄にもたらしたものは、単なる財政的な破綻にとどまらなかった。第3章でもみたように、官民を問わず、巨額の有利子資金を利用して行われる鉄道建設とその後の鉄道経営は、金利との競争である。有利子資金額と工事期間(正確には着工から開業までの期間)の両方をできるだけ圧縮することが肝要で、さもなくば、第2章で述べたように、鉄道事業の収益構造自体が悪化してしまい、せっかくの補助金投入も利子補給にも満たないことになってしまう。国鉄が経営破綻した時がまさにそうだったが、鉄道建設費の不足分やつなぎ資金を鉄道事業者自身に有利子負債として自己調達させるということを安易に続けさせていると、開業までの工事期間の間に利子でさらに有利子負債の額が膨らみ、鉄道事業そのものの収益構造の悪化を開業前に決定的なものにしてしまう。支払利息で営業利益が吹き飛ぶような状況下に置かれていては、いくら営業努力を積み重ねても報われず、いつしか営業努力自体も忘れ去られることになるのである。
会計検査院にできることは、資金調査スキームの事前検査ばかりではない。トータル・コストの視点に立つならば、ビジネスのライフ・スタイルに応じた長期的な検査プログラムも提示すべきである。なぜなら、国鉄のように、誰から見ても巨額の赤字を出し続け、経営が破綻してしまったようなケースだけではなく、たとえ経営破綻という事態には立ち至らなくても、ビジネスを意識せざるをえなくなるような段階は同じようにやってくるからである。そのことを電電について見てみよう。
電電では、1977(昭和52)年度に第5次5ヶ年計画を終了し、いわゆる「すぐつく電話」と「すぐつながる電話」を目標とした加入電話の積滞解消と全国自動即時化の2大目標がそれぞれ1977(昭和52)年度と1979(昭和54)年3月14日に達成された。その結果、1982(昭和57)年5月17日の臨時行政調査会(以下「臨調」と略称)第四部会報告「三公社、特殊法人等の在り方について」にも指摘されるような次のような状況が出現した(高橋, 1989a)。
すなわち、電電の電話事業における支出増大の原因の一つは、経費の約1/3を占める人件費であり、1965(昭和40)年度には約24万人だった要員規模が、1980(昭和55)年度には約33万人と40%も増加している。これは、加入電話の積滞解消をめざして、1970年代前半の年平均300万加入による大量架設時代に大幅に増加した保守部門の要員数約15万人の存在が大きい。臨調はこの保守部門の要員数の縮減と全国自動即時化達成によって不要になる交換手等の運用要員約6万6000人の縮減が必要であることを指摘している。そして臨調の指摘を待つまでもなく、電電の人員合理化は臨調以前から電電の手によって着々と進行しつつあったのである(高橋, 1989a)。
こうした合理化が進行していく中で、1978(昭和53)年度決算検査報告の電電のカラ出張・カラ会議等の不正経理事件、そして1979(昭和54)年度決算報告での予算総則、公社の規則等に違反した給与に関する粉飾決算が発生する。このことは、実は成熟期に入って、経営形態と事業との間で不適合を起こし始めているというきわめて重大なシグナルであった。会計検査院側としては、不正経理事件や粉飾決算は、まさに犯罪行為であろう。しかし、当時、電電内部から不正経理に関する情報があったという事実は、単に労使関係の不調を反映しているだけではなく、電電の将来を心配していた電電の人間が、誰かが手をつけて大掃除をしてほしいと願っていたという側面もありうる。そして、こうした不正の根っこには、「電電公社の歴史は合理化の歴史」という使命感にすら近いような感覚で経営効率化と格闘していた当時の電電の取り組みに対して、結局は国の会計と同じ枠組みで会計処理してしまうこと自体の限界もあったのである。
電気通信産業のように技術革新の激しい分野にあっては、本来民間企業であれば、合理化によって得られた成果は、会社側が将来の投資のために内部留保するだけではなく、従業員の側にも、ベース・アップ等で還元していかなければ、経営効率化への従業員の理解は得られない。ところが、電電では黒字分は臨時国庫納付金となってしまい、経営側にも職員側にもなんら還元されなかったのである。当時の公社制度の中でそれを職員側に還元しようとすると、それは不正という形になってしまう。もちろん、だからといって不正が正当化されるわけではないが、公社制度にとどまる限りは、こうした不正経理事件は何度摘発されても繰り返されることになる。こうした認識は、民営化当時の電電の幹部には共有されていたように観察された。
公式にも、民営化以前の1982(昭和57)年2月26日の臨調第四部会ヒアリングにおいて、電電は、その経営形態問題に関して、公社制度改正方式、特殊会社方式、民営会社方式の3方式を提言している。その内容を検討すると、電電は、公社制度改正方式においてさえ、予算総則による給与総額制を廃止することを求めている。そして、それまで、30億円まで無利子、これを越える部分にのみ3%の利子という国庫預託をやめて資金運用の自由度を拡大してくれるように求めているのである。(高橋, 1989a)
このとき、この臨調第四部会ヒアリングでの経営形態の提言作成に携わった電電の幹部の一人は、実は、不正経理事件当時、たまたま近畿電気通信局に勤務していて検察の取り調べを受け、公社制度の限界を痛感したといわれる。そして、提言をまとめた前後、公社の予算が国会の議決を経なくてはならない以上、これ以上さらなる合理化を進めるためには、もはや公社制度は捨てなければならないと覚悟したという。こうして、電電が特殊会社化という選択をする契機として、実は、当時の会計検査院の検査が、検査院側が認識している以上に非常に大きな役割を果たしていたのである。
このような「症状」の見られる成熟期に対して、対極の立ち上げ期では、別の興味深い「症状」が見られた。実は、国鉄・専売と電電は、公社化の時期が3年ほどずれているにもかかわらず、図5-1でも明らかなように、公社化した最初の2〜3年に不当事項の件数のピークを迎えていたのである。つまり、いつ公社化したという時期にはかかわらず、どこでも最初の数年間は混乱期といえるような状況に置かれるらしい。
実際、1949(昭和24)年6月に公社化した国鉄の場合、発足当初は、公共企業体にふさわしい会計制度の確立は将来に委ねられ、当面の措置として全く従前の通りの法令が適用されている。その年12月の国鉄法一部改正の際に会計制度の不備は整備されているが、1953(昭和28)年8月の国鉄法第二次改正で会計制度の大改正が行われるまで、暫定措置として、国有鉄道事業特別会計法、財政法、会計法および国有財産法が適用されていたのである。実際に、国鉄法第二次改正にともなって国鉄法施行令が大改正されたのは1953(昭和28)年10月、日本国有鉄道会計規程が大改正されたのは1954(昭和29)年10月、部内経理関係各規程が改正されたのはさらにその後ということになる。ここまでで既に5年が経過している。そして、国鉄が各種の標準・要領等を定めることで、積算の統一、諸手続の均一化等の効果によって会計検査院の指摘件数が激減するのは、さらに10年を経過した1964(昭和39)年度以降のことになるのである(『国鉄史』第12巻pp.589-591; pp.929-930)。
以上のようなことから、旧3公社については、業種や事業内容、公社化するまでの歴史という点で異なっているにもかかわらず、検査内容を見る限り、次のような共通したライフ・サイクルがあるということが指摘できそうである。
このように、旧3公社共通にライフ・サイクルのようなものが見られるという現象は、検査対象が、単に物理的なモノだけだった場合には起こりえない。決算検査報告に掲記されるものがモノの問題であったとしても、検査の対象がより広くビジネスあるいは事業だったがために起こりうる現象なのである。
こうしたライフ・サイクル全体を考えて検査するには、GAO型の有効性検査とも企業型検査とも異なる「トータル・コストの視点」からのビジネスの検査が必要になる。そして長期的なトータル・コストの視点から考えれば、ビジネスあるいは事業のライフ・サイクルの各ライフ・ステージに沿った次のような長期的な検査プログラムが発想されてしかるべきである。
そうすれば、会計検査院の役割は、検査を通じて、一定期間の間に事業を立ち上げることを助けるものへと質的に変化する可能性がある。
それでは、立ち上げに成功した事業に対する検査はどのようになるのだろうか。旧3公社の場合には、成熟期を迎えると、事業主体の責任を問いにくい外的要因に起因する問題が増えてきたために、不当事項の指摘という形はとりにくくなり、投資効果の発現といった観点からの特記事項が続出したのである。これは基本的に当事者能力が制約されているためと述べたが、より正確には自己決定の原則が守られていなかったために発生したものである。
企業は、自らあげた利益に対して、それを処分する権利をもっていればこそ、今は多少我慢してでも利益をあげ、こつこつと内部留保の形で、将来の拡大投資のために貯えるのである[110]。そして、短期的には多少の我慢をしてでも、長期でみたときの自分達の利益を最大化しようとするものである[111]。実際、民営化後の旧公社のパフォーマンス向上に本質的に重要だったものは「自己決定」であった。
第3章でもみたように、民営化後のJR東日本についてもそのことはいえるが、さらに顕著な例はNTTである。NTTは特殊会社化によって、利益・資金の処分・運用に関して制度的に自己決定的であることを保証されたのである。それは次のように民営化前後で対照的に整理できる(高橋, 1989c)。すなわち、民営化前までは、
それが、1985(昭和60)年の民営化以降は、
というように変わる。これは大きな違いである。
たとえば、給与の決定一つについても、民営化前は、予算が国会の議決を経ている上に、予算総則による給与総額制があったため、たとえ経営努力が実って、資金に余裕が出来ても、従業員(当時は職員と呼んでいた)の給与すら上げられなかったのである。ちなみに、従業員の給与つまり人件費は正確には利益の処分ではなく、利益を計算する前の段階の経費なので、給与の決定は通常の株式会社では株主総会の承認すら必要のない事項である。民営化後のNTTはようやくそれが許されたことになる。従業員は電気通信サービスの機械化、合理化に取り組み、そのことによって生じた余裕の一部を現在の給与として受け取るだけでなく、一部を自分達の未来の投資のために貯えることのできる権利を得たのである。
その余裕資金や利益を何に投資し、あるいはどのように資金運用するのかについても、民営化後はかなり自己決定的になった。1の事業計画には出資・投資についての記述は含まれず、NTT内部でも出資・投資の予算枠というものは作らなかった。つまり、有望な投資先さえあれば、予算枠にとらわれずタイミングをのがさず出資・投資ができるようになり、投資の収益性がある程度確保できるようになったのである。
ところが、1985(昭和60)年に「民営化」し、特殊会社化したNTTも、1986(昭和61)年に上場するまでは100%政府出資の公企業であり、現在も50%以上を政府が出資している公私混合企業なのである。実は、本来、公企業か私企業かは企業の長期的パフォーマンスにとってはあまり本質的ではない。NTTのように、利益・資金の処分・運用に関して制度的に自己決定的であることを保証されることこそが本質的に重要なのである。利益を吸い上げるのが国家であれ、株主であれ、それは結局同じ効果をもたらす。1960年代後半からの株主反革命で米国の経営者支配が崩壊したときのことを思い起こせばよい(高橋, 1995)。自己決定的であることが、より本質的に重要なのである。経営者が自らの責任において戦略を立て、組織メンバーが環境変動に右往左往することなく自律的に長期的視野に立って行動できることを保証するのである。資本主義社会において見られた経営者革命、すなわち経営者として有能であれば、専門経営者であっても自己永続的でありうるということも、そのことの象徴的出来事の一つだったのである。
そして、自己決定原則が確立された後でも、ビジネスの検査は有効である。既に述べたように、会計検査院では3公社の民営化を踏まえて、1987(昭和62)年5月に、特殊会社の検査を会社経営が効率的に行われているかという点に重点を置いて検査する方針を打ち出している。そして実際に、例えば国鉄の場合、民営化してJRになった後には、私鉄との比較をベースにしたベンチ・マーキングの手法で検査報告が出されていた。これは明らかに企業型検査とは異なる。立ち上げに成功した事業、ビジネスに対して、監査役や監査法人のように接するのではなく、社外取締役的にアドバイスを続けていくというのが「ビジネスの検査」のあるべき姿なのである。そこに、企業型検査との本当の意味での立場の違い、検査マインドの違いが象徴的に現れるのではないだろうか。
そこで、最初の問題に帰ろう。第1章で取り上げたように、国鉄の直接の破綻原因となった1965(昭和40)年度から着手した第三次長期計画の最初の3年間に、国鉄が調達した設備投資資金は、3,266億円+3,304億円+3,634億円の合計1兆0204億円であった。全額が有利子負債である借入金と債券によるものである。これは当初1965(昭和40)年度から1971(昭和46)年度までの7年間を予定していた第三次長期計画に基づいたものだったが、この長期計画はわずか数年で破綻し、1969(昭和44)年には「日本国有鉄道財政再建促進特別措置法」が制定され、これにより1968(昭和43)年度末の政府管掌債務に係る利子の再建期間中における事実上の棚上げ等の財政措置がとられた。そして1969(昭和44)年度からは財政再建計画に変更されたのである。
ところが、第1章でも述べたように、これほどの設備投資規模にもかかわらず、意外なことに、この時期の国鉄は新線建設をあまりしていなかった。1965(昭和40)年度〜1968(昭和43)年度の工事費決算額でみると、全体で1兆3411億6000万円のうち、線路増設費3238億1000万円、車両費2903億2000万円、停車場設備費2114億7000万円と全決算の70%を占めていた。大都市通勤通学輸送力・幹線輸送力の増強、車両増補、電化、電車化、DC化および安全確保に重点が置かれていたといわれる(『国鉄史』1973, Vol.12, p.701)。つまり、国鉄は改良工事や設備更新に必要な資金を高利の債券で調達したために、雪達磨式に負債が膨らみ、たった数年であっけなく経営が破綻してしまったのである。しかしなぜ国鉄は、改良工事や設備更新に必要な資金くらい、内部留保の形で用意しておけなかったのだろうか。減価償却の考え方はもちろん国鉄にもあったのである。
その答えは、乱暴な言い方をすると、黒字が出ていた頃の国鉄の利益に対する政府と地方自治体の「たかり」にある。『国鉄史』(1973, Vol.12, pp.170-172)によると、国鉄が公共企業体として発足した1949(昭和24)年以来、国の社会政策・文教政策・産業政策の肩代わりをさせられた運賃上の公共負担は、1967(昭和42)年度までの累計で、通勤・通学定期の6,915億円を含む旅客7,424億円、貨物1,578億円、特別扱新聞紙・雑誌512億円の合わせて9,514億円にのぼる。さらに、1956(昭和31)年度から「国有資産等所在地市町村交付金及び納付金に関する法律」で、当時窮乏していた地方財政の健全化に資するために課された市町村納付金が、1967(昭和42)年度までの累計で997億円。つまり合計1兆0511億円もの資金が、国や地方自治体の手で国鉄からむしりとられていたことになる。この金額が、1965(昭和40)年度から着手した第三次長期計画の最初の3年間に、国鉄が調達した設備投資資金の合計1兆0204億円とほとんど同額なのは、たんなる偶然なのであろうか。もしこれだけの資金が内部留保されていれば、国鉄は経営破綻しなくて済んだはずなのである。
再度繰り返そう。本来、公企業か私企業かも企業の長期的パフォーマンスにとってはあまり本質的ではない。利益・資金の処分・運用に関して制度的に自己決定的であることを保証されることこそが本質的に重要なのである。利益を吸い上げるのが中央・地方政府であれ、株主であれ、それは結局同じ効果をもたらす。経営学的には、内部留保を含めた資金調達スキームの自己決定原則の確立こそが望ましい。
[95] PFIあるいはBOT (build operate transfer)については、学会誌『オペレーションズ・リサーチ』1998年9月号(Vol.43, No.9)が特集を行っている。その中でも福川(1998)は、キャッシュ・フローの観点からBOT方式を特徴付けるとともに、文献の紹介も行っている。
[96]第4章でも触れたがドイツで行った鉄道の資金調達スキームのインタビュー調査によると、ドイツでは補助金の期限は25年ということになっているので、その期限前に他の補助金をもらうような事態になった場合、鉄道インフラのメンテナンスが不適切だったり、それを怠っていたりしたことが原因で設備等の更新が必要になったときには、ドイツ連邦会計検査院は補助金の支出をやめさせることができる。
[97]本稿では長期的な収支の経済性が問題になるという意味でビジネスという用語を用いることにしよう。あえてビジネスという用語を用いるのは、国の事業に対して「収益性」の観点を持ち出すことはなじみにくいが、他方で、単に旧来通りの「経済性・効率性・有効性」では意を尽くすことができないからである。
[98]ただし、持田(1995)の分析については、次のような問題点があることを念頭において理解する必要がある。@決算検査報告の掲記事項は、同じ省庁に関連した同種の不当事項が非常に多く抽出された場合には、それらを1件としてまとめて掲記する傾向があり、件数を数えること自体にあまり意味がない可能性がある。A決算検査報告に掲記されなくても、合規性検査や経済性・効率性検査に関しては、処置が要求され、実効性のある措置が取られているが、他方、有効性検査に関しては、決算検査報告に掲記されず不問になれば、何ら実効性のある措置がとられない可能性が大きい。つまり、決算検査報告の掲記事項の傾向は、会計検査院の検査活動全体の傾向を表しているというよりも、決算検査報告への掲記基準の傾向を表していると考えた方が正確であろう。
[99]以下のこの節と次の第3節で行われる分析は、本田米彦氏(第五局鉄道検査課 統括調査官)とのインタビュー(1998年6月12日)、武藤一男氏(第二局厚生検査第二課 副長)とのインタビュー(1998年9月10日)、および1987年2月20日に「公社検査から特殊株式会社検査へ」と題して行われた現役とOBの座談会の記録をもとにして、『あゆみ』で補足しながらまとめたものである。
[100]『あゆみ』p.25, p.48では国鉄だけが導入の対象として挙げられているが、専売も対象になっていた。
[101]この三つの理由については補足説明が必要であろう。まず、(a)1の記述は、単に不当事項が多かったために、従来型検査に対する需要があったということを指しているのみで、企業型検査を行うには時機尚早であったというようなニュアンスは含まれていない。(b)2でいう「人員」とは公認会計士と同等の財務諸表監査能力のある調査官を意味しており、現実にはそのような調査官はごく少数しかいなかった。公認会計士の資格をもっていた調査官は、これまででも既に退官した2名と現役の1名(1998年度現在)しかいない。それとは対照的に米国では、持田(1995)によれば、1950年代のGAOは100%公認会計士によって構成されていたといわれる。ただし、その後15〜20年かけて内部の人間の再教育が行われ、現在GAOでは公認会計士の割合は20%程度で、大多数が専門的経歴をもつスタッフで構成されるようになっているという。(c)会計検査院が行う財務諸表の検査とは企業型検査のような組織的なものではなく、個別的散発的なものであり、財務諸表の適否を全体として判断することを目指すものではない。(d)経営能率についての検査とは、財務諸表では必ずしもわからない特定の事業あるいは業務についての損益状況を明らかにし、その原因を掘り下げて分析する検査である。
[102]このうち国鉄については、1964(昭和39)年3月23日に日本鉄道建設公団(鉄道公団)が分離したために、その分も含めて集計している。具体的には、国鉄に分類されている1967, 70, 71, 73, 76, 80年の各1件、1978, 79年の各2件は鉄道公団の分である。
[103]注101の(b)を参照のこと。
[104]こうした指摘の仕方は民営化前であっても可能だったはずだが、民営化前には、関連事業や周辺業務に言及することが民業を圧迫する恐れもあり、回避されていたと思われる。しかし民営化を契機にして、当時、会計検査院の内部で、民営化したのだから、うまくやって利益を挙げている私鉄との比較をしてみようという気運が盛り上がり、検査報告に結びついたものだと言われている。しかしこれらの検査報告をまとめるに当たっては、「収益性」という意識はあまりなかったと言われ、あえて言えば、民営化前の支出面での経済性一本槍だったものが、私鉄との比較を通じて収入面での経済性にも関心が向くようになったという特徴がある程度であろう。支出だけではなく収入も考えるようになったという意味では「ビジネスの検査」的発想が見えているが、企業型検査とは明らかに異なるものなのである。
[105]実際の検査の場面では、旧3公社のような、より民間的な組織であれば、国会報告という不名誉に甘んじても、長期的に自らの利益となる可能性が高い指摘であれば受け入れやすいが、逆に、より役所的な組織では、国会対応を嫌って、不確実性を伴う指摘については、そこを突いて拒絶するという側面もあったと考えられる。しかしこれは決算検査報告にどこまで書くかという問題であって、検査対象が何であるかとは別次元の問題である。実は、こうした拒絶反応自体、後者の役所的な組織であっても、責任追及がモノのレベルだけでは済まなくなるという認識から生じていると考えられる。すなわち、真の検査対象は、今でもモノではなく組織であり、その経営・運営・管理・方針といったビジネスが問われているからこそ生じる組織防衛的反応なのである。
[106]実際、1998(平成10)年度決算検査報告では、「本州四国連絡道路の計画及び実績について」(pp.525-539)のように、料金制度、償還計画、交通量などの検討により、支払利息すら賄えないような状況を指摘するものも現れてきている。
[107]例えば、前述の国鉄のシリーズの2 (1977(昭和52)年度決算検査報告)では、1,582億余円の投資で建設された施設、設備または配備された機械、装置等がその効果を発揮しないままにいたずらに年月を経過し、これらの投資額に係る利息は1977(昭和52)年度末までの累計推算額で、なんと約432億円にもなるとしている。
[108]当時の決算検査報告では、国鉄については、「事業概要について」「損益について」などといった形で、その業務・財政の状況について淡々と記述されていただけであった。
[109]事業開始から20〜30年程度経過した段階で、会計検査院が「見直し」を行い、民営化モードに入るか、清算モードに入るか、あるいはそのままさらに数十年、国の事業として継続するのか、というgo or no-goの観点(桑嶋, 1999)からの検査を行うことを義務づけるべきかもしれない。従来この種の判断や勧告をともなった検査は行われていないが、例えば、前述した国鉄のシリーズの場合、このような事態を放置していると、将来の国鉄のためには非常に危険なことになる。国鉄の皆さんはこういう事態をどう考え、どのように判断しますか。早く対処しなければいけませんねという会計検査院側からのメッセージが込められていたといわれる。公共工事の場合でも、1993(平成5)年度の羊角湾土地改良事業、1994(平成6)年度の多目的ダム等建設事業の特記事項では、更に踏み込んで、効果未発現の事態をこれ以上拡大させないために事業の見直しも含めた観点から問題提起がなされている。また事業継続を決める際でも、当該事業での処分者は過去に遡及して責任をとらせ、合理化の対象とすべきかもしれない。現在でも不当事項として国損行為を行った場合には、回収を伴った処分が行われている。『会計検査情報』1998年5月28日号によれば、1996(平成8)年度決算検査報告の処分処置では、関係省庁と政府関係機関(公庫)が1998(平成10)年3月末までに処分処置を行った処分者総数は1,619人、それに加えて出資法人分36人となっている。しかし「戒告」「厳重注意」「注意」程度で、処分者にとって実質的にどのようなデメリットになるのか必ずしも明らかではなく、それを明確にするには良い機会かもしれない。
[110]企業が自らあげた利益に対して、それを処分する権利を持っているということ、つまり、組織において自己決定的であることが重要であるもう一つの側面は、自己決定的であることそれ自体が、実は職務満足の源泉であるというワーク・モティベーションの側面である。詳しくは、高橋(1993a; 1993b; 1997)を参照のこと。
[111]かつて、民営化前の電電で、民間企業出身の真藤恒総裁は、1981(昭和56)年夏に「社内的には予算という文言を使うべからず」という強い指示を出したといわれる。「予算」となると官庁型に考えて、どうしてもそこまでは使用できる支出枠として、さらに一歩進むと、そこまでは無条件に使っていい、使わなければ損ということになって、本来ならば、収益の代償となるべき経費、必要がなければ使わないという根本的な理解がなかなか浸透しないことに、民間企業の出身者として業を煮やしていたのだという。しかし、電電は民営化の前後から、こうした意識改革が予想外に早く、かつ広範に進み、各現場毎に締めてみると、余っても使わない、あるいは計画変更してより多くの額を要求して使うという現象が見られたと、会計検査院側でも述懐されている。
この本は、筆者が会計検査院の特別研究官を勤めていたとき(1998年4月から2000年3月まで)に、会計検査院官房審議室研究班のメンバーに助けられながら進めていた調査・研究がもとになっている。特に、毎回、数時間喋りっ放しの議論の相手をしていただいた河北公郎上席調査官(当時)、ドイツでの現地実態調査の効率的なスケジュールを組んでいただいた上に同行までしていただいた鈴土靖研究企画官、会計検査院ならではの資料収集で強力なサポートをしていただいた坂本強副長(当時)、池田功副長、そして梶山紀子調査官ほかの調査官の方々には改めて御礼申し上げたい。研究班の助けなしには、本書は影も形もなかったことだろう。
もちろん、当然のことながら本書での主張は筆者の責任においてなされているし、事実、最後まで研究班のメンバーと意見の一致をみなかった部分も存在する。ほとんどの場合、意見の相違は、会計検査の現場を知らない筆者の誤解から来るものであったし、あまり会計検査院と関係のなかった一経営学者の「常識」が言わせるものでもあった。しかし、そうした本音の意見があちらこちらでぶつかり合っている間に、本書を形作る大きな問題意識と将来像が見えてきたのも事実である。
実は、一連の研究は、本書第5章に当たる部分の論文が半分ほど書き上がった1998年秋から始まっている。そこで職業柄、ディテールにこだわった筆者が、書きかけの論文を棚上げにして、実際の鉄道事業者の資金調達スキームを調べたいとわがままを言い出した。不思議なことに、これだけ巨額の資金が調達されているにもかかわらず、資金調達スキームについては、当該企業のごく一握り、数人の人しか知らない世界なのである。そこで、研究班のメンバーに資金調達担当者のアポを取ってくれるように懇願したわけだが、これが予想外に順調に進み、1998年秋から1999年春にかけては、毎週のように筆者がインタビューに飛び回ることになってしまった。調べれば調べるほど驚きの連続であったが、資料収集やインタビュー調査で協力していただいた東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)、日本鉄道建設公団、東京都交通局、帝都高速度交通営団には、ここに記して謝意を表したい。特に国鉄時代の貴重な資料を整理・提供していただいたJR東日本の石堂正信氏には、この場をお借りして感謝申し上げたい。
こうして、日本の鉄道建設における資金調達スキームがようやく分かりかけて来ると、今度は、研究班の側から、日本の国鉄分割民営化をモデルにしたともいわれるドイツの鉄道改革を調べて比較すべきだとの提案がなされ、1999年10月に、ドイツでの連邦交通省、連邦鉄道庁(EBA)、ドイツ鉄道株式会社(DBAG)、連邦鉄道財産(BEV)、連邦会計検査院のインタビュー調査が企画・実施された。これらの諸機関にも感謝申し上げたい。このドイツでの調査のおかげで、日本の抱えている問題点もかなり鮮明になった。
このような経過でほぼ1年強、棚上げ状態にあった当初の論文にようやく戻ってきて、再度、研究班のメンバーと任期ぎりぎりまで議論を繰り返して、なんとか本書全体の構成が出来上がったのである。その間、一連の研究成果は、走りながら形にして、さらに読者等からの批判を仰ぐというプロセスを通ってきた。公表順に初出一覧という形で掲げると、
ということになる。本書第1章〜第3章は1と2を再編したもので、第4章は4と5をまとめ、第5章は3をもとにして、それぞれ加筆している。
筆者の所属する東京大学大学院経済学研究科の経営グループでは、21世紀に向けて、(1)現場から本質をつかみ出し(field)、(2)それを論理的に説明・分析し(logic)、(3)具体的な問題解決に結びつける(action)、といったフィールド・ベースト(field-based)なアプローチを提唱しているのだが、本書もフィールド・ベーストな研究成果と位置付けてもらえれば、望外の喜びである。
最初は1本の論文になるはずだったものが、いつの間にか1冊の本に化けてしまい、会計検査院の研究班のメンバーは多少驚いているかもしれない。この本の内容を読んで、さらに驚かれることを密かに期待している。この間、「鉄道」「鉄道」と口走りながら、突如、鉄道マニアと化したがごとく忙しそうに鉄道を追い回して飛び回っていた筆者を怪訝そうな顔で眺めていた周囲の友人、知人たちは、多少納得するかもしれない。ドイツではお土産を選んでいる暇もなかったと話しても信用してもらえなかった妻敦子と息子伸之には多少の言い訳になるかもしれない。ろくなドイツ土産も買えなかったが、日々感謝している。そして、読者からの最初の批判に対する私の返事:
拙稿の主張に対する違和感とお怒りは理解できるつもりではおります。しかし、鉄道分野に限らず、各方面で積み増され、もはや把握しきれぬほどに後の世代に対して負債を背負わせてしまっている現状をふまえて、法律や政府責任が一体どれほどの免罪符になりえるのか。国家公務員の一人として危惧をもっております。国立大学も近い将来、同じような局面に遭遇するであろうというある種の予感と覚悟の中で、私はこの研究に着手しました。私は、国立大学の一教官である前に、一日本国民として、大学の望ましいあるべき姿を模索し、常に当事者意識を持ち続けていきたいと願っております。
最後に、本書を昨年3月に急逝した最も尊敬する教師の一人である父、日出夫に捧げる。
2000年3月 父の命日
高橋伸夫